2025.07.03.
‐多機能で安全なペースト状人工骨の開発へ貢献‐ ペースト硬化の長年の疑問を数学が解き明かす
関西学院大学(兵庫県西宮市、学長:森康俊)の市田優・理学部数理科学科助教(同大学数理・データ科学教育研究センター研究員、明治大学先端数理科学インスティテュート現象数理部門研究員を兼任)は、明治大学および同大学大学院の研究者らとの共同研究により、ペースト状人工骨の材料特性に応じた硬化現象を1行の方程式で表現し、これまでバイオマテリアル分野で明かされていなかったペーストの硬化現象のメカニズムの一端を数学的視点の導入によって解明することに成功しました。
今後到来が予想される超高齢化社会においては、骨粗しょう症など、さらなる増加が危惧される骨疾患に対して、医療現場では負担の軽い治療法としてペースト状人工骨の開発と実用化が急がれています。バイオマテリアル分野では、これまで実験的にその材料特性の評価がなされてきました。本研究では数学とバイオマテリアルを融合させ、ペースト状人工骨を患者に見立てた円筒形模型に注入した後、どのように硬化が進み、加える材料の有無によってどのような変化が起こるのかを1行の数式で(定性的に)表現しました。このたびの成果を発展させることにより、生体吸収性や抗菌性などより多くの機能を持った、より安全なペースト状人工骨を効率的に開発できると期待されます。
本研究成果は2025年7月1日(日本時間)、Springer Nature社が発行する国際学術誌「Scientific Reports」に掲載されました。
本研究成果のポイント
- ペーストの硬化という複雑な現象の本質を抽出し、解析可能な数理モデルを構築しました。
- 数理モデルを活用することで、ペースト状人工骨における硬化現象のメカニズムを可視化しました。
- イノシトールリン酸(IP6)をペーストに付加すると硬化した際に空隙や亀裂ができなくなる現象に対し、その理由を説明する根拠を数学の学術的観点から示しました。
研究の背景

リン酸カルシウムセメント(CPC)ペースト(図1参照)は骨補填材に使用されており、患者の低侵襲治療を実現する人工骨として期待されています。患部に注入可能なCPCペーストについて、硬化時間や強度などの最終的に求められる材料特性をどのようにして持たせ、そしてどれだけ有するかを評価することは、バイオマテリアル分野の重要な課題とされています。本研究では、求められる性能の1つであるNon-fragmentation(非断片化)性に着目し、先行研究*¹に則って、a) 固まった後にCPCが塊とならないこと、b) 固まっている最中にCPCに亀裂や空隙が発生することをfragmentation(断片化)と定義し、これと反対の現象をNon-fragmentationと呼んでいます。先行研究では、イノシトールリン酸(以下,IP6)をキレート剤として用いた新たなCPCペーストの開発とNon-fragmentation能を非破壊的に評価する方法を確立しており、IP6を充分に含むペーストはNon-fragmentationを示し、逆にそれを含まないwaterタイプのペーストはfragmentationを示すことが報告されています。この結果から、なぜIP6を充分に含む方にのみNon-fragmentationを有するのかという疑問が生じます。この疑問に答えるには、硬化の過程でIP6を含めたことにより何が起こっているのかを明らかにしなければいけませんが、現状では硬化挙動や硬化中におけるIP6の影響を完全に理解するための実験系が存在しないため、実験的なアプローチで解明するのは困難です。そこで、論理の保証や仮説の提供、実験の効率化に向けて数学の観点から導くべく、数学的言語を用い、これら一連の過程を数式で表現することによって、この問題に解決の糸口を示すことを本研究の目標としました。
研究成果の詳細
本研究では、数理モデルがもたらす普遍性、論理の保証、仮説の提供を活かし、その構築と解析を通して、材料に依存するペーストの硬化挙動を解き明かしています。先行研究で扱った試験器におけるペースト状人工骨の硬化とX線CTを用いたその硬化体の非破壊的な測定と評価を目的とした実験のすべてを数式で表現することは困難であるため、本研究では数理モデル構築の根拠となる新たな実験を行いました。複雑かつ多くの過程であるペースト状人工骨の硬化現象に影響を及ぼす材料特性のメカニズムを解明するために、この新たな実験で得られた結果を上手に組み込むことにより、IP6濃度を重要な因子とする単純なAllen-Cahn(アレン・カーン)型方程式*² を用いて1行の方程式を構築しました。その数値シミュレーション結果(図2参照)は、IP6が存在しない場合にはfragmentation性を示し、IP6が充分に存在する場合にはnon-fragmentation性を示しており、実験的に観察することが難しいペーストの硬化挙動を可視化し、バイオマテリアル分野における「なぜIP6がnon-fragmentation性に関与しているのか」という疑問に答える論理や仮説を提供することに成功しています。
本論文では、IP6が充分な場合に、IP6によりペーストの流動性が強くなること、そして硬化時間を充分に確保することにより、注入の初期で必然的に発生してしまうペーストの粗密が均一になることでnon-fragmentation性を示すというメカニズムを明らかにしています。バイオマテリアル分野の疑問に数学的視点を導入し、数理モデル構築のための実験、数理モデル、その数値シミュレーションを組み合わせることによって、ペースト状人工骨の材料特性に関する基礎研究にブレークスルーを与え、新規材料創製の指針になると研究グループは考えています。
図2:数値シミュレーション結果の1つ。IP6が充分な量の場合は空隙に対応する黒い領域がないこと、すなわち、Non-fragmentation性を示している。
今後の展望
本論文ではペーストを患者に見立てた円筒形の模型を対象としていますが、今後は、実際の骨形状での議論展開や、non-fragmentation性以外の特性も考慮することのできる数理モデルの構築とその解析を目指し、定量的議論を可能にするとともに、ペースト状人工骨の実用化と、QOL向上に数学の分野で貢献していきます。
*¹ K. Nagata, K. Fujioka, T. Konishi, M. Honda, M. Nagaya, H. Nagashima, and M. Aizawa., J. Ceram. Soc. Jpn., 125, 1-6 (2017).
*² Allen-Cahn型方程式とは、反応と拡散が同時に行われている系が時間発展する様子を記述する方程式(反応拡散方程式)の典型的なものの1つ。相分離現象を記述する方程式の1つと考えられており、相転移や画像解析、平均曲率による運動など様々な問題に応用されている方程式である。
論文情報
掲載ジャーナル:Scientific Reports
論文タイトル:A simple mathematical model for evaluation of non-fragmentation property of injectable calcium-phosphate cement
著者:Yu ICHIDA†,*, Rika YAMADA, Shiori KATO, Yuki KAMAYA, Minami KOSUGE, Mamoru AIZAWA*, Takashi Okuda SAKAMOTO, Shigetoshi YAZAKI
† 筆頭著者、* 責任著者
DOI:10.1038/s41598-025-06039-0
特記事項
本研究は日本学術振興会、科学研究費助成事業(科研費)課題番号21J20035、22KJ2844、21H04593、明治大学先端数理科学インスティテュート(MIMS)共同利用・共同研究拠点「現象数理学研究拠点」ライフサイエンス・数理科学融合研究支援プログラム、明治大学生命機能マテリアル国際インスティテュートの支援を受けて実施されました。