2021.12.16.
緊張するとパフォーマンスが低下するのはなぜ?~聴覚と運動を統合する機能の異常を発見

長田典子・工学部教授らによる共同研究、JST戦略的創造研究推進事業で

 関西学院大学工学部の長田典子教授と大学院修了の石丸怜子氏は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業において、株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所の古屋晋一博士らとともに、ピアニストの心理緊張による巧緻性低下を予防するトレーニング法を発見しました。
 ピアニストやアスリート、外科医などのエキスパートは、膨大な練習を経て高度な技能を獲得しています。しかし、コンクールやオリンピックといったプレッシャーのかかる場面において、心理緊張に伴い、想像できないようなミスをしてしまう問題は、職業生命を脅かす事態にも関わらず、背後にある脳と心のメカニズムや予防法は未解明でした。
 研究グループは、ピアノの音の音量やタイミングを任意に操作できる「可変聴覚フィードバックシステム」を用いて電子ピアノの発音タイミングを遅らせ、直後に演奏がどの程度乱されるかを評価することで、時間を知覚する聴覚機能と正確な指動作を生み出す運動機能を統合する働きの頑健性を調べました。その結果、心理緊張に伴い、熟練したピアニストであっても、人為的な発音の遅延によって演奏動作が乱されることを明らかにしました。一方、聴覚の機能や運動の機能それぞれの異常は見られませんでした。さらに、可変聴覚フィードバックシステムによる人為的な発音の遅延を無視するトレーニングを事前に一定時間行うことにより、心理緊張に伴う聴覚と運動を統合する機能の異常が現れませんでした。以上のことから、心理緊張に伴い、聴覚への情報に対して過度に身体動作が反応してしまう異常が生じることが示唆されました。
 この発見は、エキスパートの技能を心理緊張下でも安定して行うことを可能にするトレーニング法の開発や、アガリによる技能失調に関わる脳と心のメカニズム解明に役立つことが期待されます。
 本研究成果は、2021年12月16日午前10時(英国時間)に国際科学誌「Communications Biology」のオンライン版で公開されました。

【ポイント】
〇楽器演奏や外科手術などの卓越したスキルを持つエキスパートが、プレッシャーのかかる場面で、心理緊張やアガリに伴い、巧緻性が低下する仕組みは未解明だった。
〇ピアノの音が鳴るタイミングを人為的に遅らせられるシステムを用いた実験により、心理緊張に伴う演奏時の聴覚と運動を統合する機能の異常を明らかにした。
〇このシステムを用いた聴覚運動トレーニングにより、心理緊張に伴う聴覚と運動の統合機能の異常が見られなくなったことから、エキスパートのスキルを心理緊張下でも安定して実行するためのトレーニング法の開発や、心理緊張による技能失調に関わる脳と身体と心のメカニズムの解明に役立つと期待される。

 
 本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
 ◆戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)◆
  研究領域:「人間と情報環境の共生インタラクション基盤技術の創出と展開」
  (研究総括:間瀬 健二 名古屋大学 大学院情報学研究科 教授)
  研究課題名:「技能獲得メカニズムの原理解明および獲得支援システムへの展開」(JPMJCR17A3)
  研究代表者:小池 英樹(東京工業大学 情報理工学院 教授)
  研究期間:平成29年10月~令和5年3月
 JSTはこの領域で、人間、機械、情報環境が共生する社会での相互作用に関する理解を深め、人間同士から環境全体まで多様なインタラクションを高度に支援する情報基盤技術の創出と展開を目指します。上記研究課題では、手指の巧みな動きを生み出す仕組みの解明と熟達支援に取り組んでいます。

<研究の背景と経緯>
 アスリートや音楽家、外科医など、さまざまな分野でエキスパートと呼ばれる熟練者の技能は、長年にわたる膨大な運動トレーニングを経て獲得されます。しかし、オリンピックやコンクールといったプレッシャーのかかる場面において、心理緊張に伴い、普段は起こりえないミスを犯してしまうことは、多くのエキスパートにとって大きな問題です。
従来、心理緊張に伴う技能の喪失の背景には、注意や記憶といった認知機能の異常や、自律神経機能の異常が関わっていることが報告されてきました。しかし、心理緊張に伴う感覚や運動の機能の異常や、それを回避するためのトレーニング方法については、明らかにされてきませんでした。
 研究グループは以前、ピアノ演奏中のリズムのエラーを聴いた直後に、音楽訓練未経験者は演奏が乱される一方、ピアニストは頑健に演奏を遂行し続けられることを発見しました。しかし、心理緊張に伴い、この技能に異常が生じて、熟練ピアニストが音楽訓練未経験者のような状態になる可能性も示されましたが、その真偽は不明でした。

<研究の内容>
 研究グループはまず、ピアノの発音のタイミングやピッチ、音量を任意に操作できる「可変聴覚フィードバックシステム」を用いて、ピアノ演奏中に発音のタイミングを人為的に遅らせる外乱を生み出し、それに対する手指の動きの反応を評価することによって、演奏時の指の運動が聴覚から得られる情報の影響をどの程度受けるかを調べました(図1)。
まず実験1では、ピアノ演奏中、人為的にリズムのエラーを生み出すことにより、聴覚から得られる情報をどのように利用して、手指の運動を巧みに制御しているかを明らかにすることを目的としました。ショパン作曲の練習曲(Op.10-8)より抜粋した課題を規定のテンポで演奏中に、ピアニストが予想できない箇所で発音のタイミングを80ミリ秒(ミリ秒は1秒の1000分の1)、人為的に遅らせ、その後の演奏がどの程度乱されるかを調べました。心理緊張を高める状況を生み出すため、被験者の真横で別のピアニストが演奏を観察・評価し、さらに被験者の目の前にビデオカメラを置いて録画し、被験者に課題を演奏してもらいました。11名のピアニストを対象に実験を行った結果、心理緊張を伴う演奏時のみ、遅延聴覚フィードバックの提示による打鍵タイミングの正確性の有意な低下が見られました(図2)(p<0.05)。これは、心理緊張を伴わない場面での音楽訓練未経験者と同様の反応であり、心理緊張に伴い、聴覚へのリズムのエラー情報に対して過度に身体動作が反応してしまう異常が生じることが示唆されました。
 一方、二音を連続して提示し、その音間の時間間隔を識別する聴覚機能や、各指を最速で動かす際の運動の速度や正確性といった運動機能は、心理緊張に伴う変化は認められませんでした。
 次に実験2では、ピアニスト30名を対象に、心理緊張下での演奏を行う前に、可変聴覚フィードバックシステムを用いたトレーニングを数十分間行うことにより、その後の心理緊張下での演奏にどのような影響が現れるかを調べました。研究グループは、トレーニング群として、ピアノ演奏中の発音タイミングの遅延を無視して練習するグループ(遅延無視群)と、発音の人為的な遅延を打ち消すように通常より早いタイミングで打鍵する練習を行うグループ(遅延適応群)に各10名ずつのピアニストを振り分けました。その他、トレーニングを行わないグループ(統制群(安静))に10名を振り分けました。トレーニング後、心理緊張下での遅延聴覚フィードバックの提示による演奏の乱れ(打鍵タイミングのエラー)を調べた結果、遅延無視群のピアニストのみ、演奏の乱れが見られませんでした。これはピアニストが心理緊張下でも、聴覚からのリズムのエラー情報に対して過剰に手指動作が反応しないよう、聴覚と運動を統合する機能がトレーニングによって正常化したことを示唆しています(図3)。遅延無視群は演奏中の異常な聴覚刺激に反応し過ぎないトレーニングを積んだため、心理緊張下で耳が捉えたミスに過敏に反応し過ぎる心身の働きが正常化したことが一因と考えられます。
 まとめると、心理緊張に伴う演奏技能の低下の背景には、聴覚情報を用いて適切に運動を制御するというエキスパート特有の技能が失調し、あたかも初心者のような状態になってしまうこと、このような技能失調は事前の聴覚運動トレーニングによって防げる可能性があることが明らかになりました(図3)。
 

<今後の展開>
 今回の研究によって、聴覚から得られた情報を適切に身体動作の制御に利活用できないことが、プレッシャーのかかる状態でのパフォーマンスの低下に関連することや、事前の短期的なトレーニングによってこういった問題を回避できる可能性が示されました。この発見は、心理緊張下で最適なパフォーマンスを発揮するための新しいトレーニング理論やトレーニングシステムの開発や、アガリやイップス(緊張や不安などに伴い、それまでスムーズにできていた動作が思い通りにできなくなる症状)といった問題の背後にある脳と身体と心のメカニズムの解明などに役立つことが期待されます。

<論文タイトル>
“Back to feedback: aberrant sensorimotor control in music performance under pressure”
(心理緊張下の音楽演奏における感覚運動制御の異常)
DOI: 10.1038/s42003-021-02879-4

図1.可変聴覚フィードバックシステム

図2.一時的な遅延聴覚フィードバックの直後の打鍵タイミングのエラー

図3.遅延聴覚フィードバックを用いたトレーニングが、心理緊張下における演奏の頑健性に及ぼす影響

 

共同発表)緊張するとパフォーマンスが低下するのはなぜ?PDFリンク