2020.09.28.
創立記念日(9月28日)によせて 理事長・院長のメッセージ

新型コロナウイルス感染症の予防および感染拡大防止のため、今年の創立記念礼拝は見送りとさせていただきます。
代替として、平松一夫・理事長と舟木讓・院長のメッセージをご紹介します。

平松 一夫 理事長

草創期の「危機」対応に思いを馳せて

関西学院は今、新型コロナウイルスによる「危機」に直面し、対応を迫られています。131周年の創立記念日を迎えるにあたり、草創期の関西学院が直面した「危機」への対応に思いを馳せつつ、関西学院の存在意義を考える機会にしたいと思います。

その「危機」とは、学院創立後わずか10年の1899年(明治32年)に公布された「文部省訓令第12号」です。これは公的な教育機関での宗教教育を禁じるもので、この訓令の故にキリスト教主義教育の理念を放棄する学校もあったようです。しかし、関西学院では、吉岡美國第2代院長の「聖書と礼拝なくして学院なし。特典便宜何ものぞ。たとえ全生徒を失うもまたやむを得ざるなり。」という力強い方針により、キリスト教主義教育が堅持されたのでした。

訓令第12号の下では、関西学院を卒業しても徴兵猶予の適用はなく、また上級学校進学に必要な中学校卒業の資格も与えられなかったのです。そのため関西学院では、他の中学校などに転校する生徒があとを絶ちませんでした。1909年(明治42年)、文部省と交渉した結果、1911年(明治44年)3月以後の卒業生には他の中学校の卒業生と同等の特典が与えられることになりましたが、1910年(明治43年)3月の卒業予定者には特典が与えられなかったため、当時5年生の13名全員が他の中学校などに転校し、卒業生はゼロとなってしまったのです。

現在わが国では、新型コロナと闘うなかで、ヒトの命と経済活動のいずれを取るかが毎日のように議論されています。草創期の関西学院でも、訓令第12号と闘うなかで、教育の理念と学院経営を巡ってさまざまな議論がなされたはずです。創立131周年の記念日を迎え、草創期の「危機」に対する吉岡院長の決断に思いを馳せつつ、新型コロナの「危機」への対応を迫られる現在の関西学院のあるべき姿を考えることは、極めて意義深いことだと思うのです。

舟木 讓 院長

創立131周年を迎えて ~ 真の優しい社会の実現に向けて ~

2020年は、人類全体がこれまで経験したことのない世界規模での感染症拡大という出来事が起こり、今も多くの方々が収束に向けて働きを続けてくださっています。犠牲となられた方々の平安とご遺族・関係者の方々への慰めと励ましを祈りますと共に、この収束に向けて尽力しているすべての人々の健康と働きが守られますことを願い、私たちもそれぞれがなしうること、なすべきことを互いに協力し、思いやりと支え合う気持ち、そして希望をもって日常の歩みを続けたいと思います。

本学院においても卒業式・入学式の中止、オンラインでの授業実施、消毒とソーシャルディスタンスを常に意識した授業と生活が続く中、課外活動も本格的に再開できない状態で、在校生、教職員の方々に大きな負担を強いざるを得ない時が継続しています。こうした中、9月28日に私たちは創立131周年の時を迎えました。

今年は、それまでアメリカ南メソヂスト監督教会の単独経営で、存続の危機にあった本学院に、同じルーツを有するカナダ・メソヂスト教会が経営と人的な支援に参画して110年、また同時に就任されたC.J.L.ベーツ宣教師が第4代院長に就任され100年の記念の年となります。その後、危機を脱し、大学昇格を目指して西宮上ケ原キャンパスに移転、1932年に大学昇格を果たし、ベーツ院長が初代学長を兼務されることとなり(※) 、今日につながっています。関西学院最初の危機もそのことに心を痛め協働してくださる方々によって乗り越えることができました。

現在、この状況に対してだれも確かな答えを見出すことのできない不安な時を送っておりますが、今回、自分だけが健康であったり、一つの国だけが安全であったりしても本当の安心にはつながらないことがはっきりとしたと言えます。私たちは一人で生きているのではなく、この世界に存在するすべての人々とつながっている、という事実に常に立ち返り、他者もまた、神様から命を与えられ愛されている尊い存在であることに思いをいたし、すべての人が安心できる優しい社会を実現するための歩みを、これからも共にしてまいりましょう。

最後になりましたが、これ以上の有形無形、いずれの犠牲も出ないことと、一刻も早い収束、さらにその後の世界が命の平等性が守られる優しさに満ちた社会へと変革していることを共に祈りたいと思います。

※  これまでベーツ第4代院長の学長就任は、大学昇格の2年後1934年とされてきましたが、1931年10月6日の理事会で学長が選出されており、大学昇格の1932年4月に学長に就任されたことが確認されました。