貴戸 理恵准教授(1)

[ 編集者:社会学部・社会学研究科      2016年8月2日   更新 ]

不登校経験と「社会学」との出会い

研究テーマとの出会いはどのようなものでしたか?

「社会」というものを私が初めて意識したのは7歳の時でした。
その頃、私は学校に行かず、いわゆる不登校の状態でした。いじめや学力不振といった明確な理由があったわけではないのですが、学校へ行きたくないという思いが強くありました。
1980年代後半でした。「良い学校に入って、良い会社に入る(あるいはそういう人と結婚する)。そうすれば幸せになれる」と強く信じられていた時代です。「学校+企業=社会」といった図式が成り立っている中で、不登校はすなわち社会から外れること、「非社会的行動」と見なされていました。
ですから、当時の私にとって社会とは、理不尽なもの、自分をはじき出す不可解なものでした。

その後、社会学の道に進まれた経緯を教えてください。

その後は中学から学校に行くようになりましたが、高校・大学と進学しても、「自分の不登校経験とは何だったのだろう?」という思いは残り続けました。この問いが社会学的な関心の出発点になっています。
大学は政策系の学部に進みました。不登校への関心から、授業とは離れたところで、精神医学や教育学の本を読みました。しかし、あまり面白いと思えませんでした。なぜなら、それらの学問分野では「子供が学校に行くのは当たり前なのに、なぜこの子は行かないのか」「どうすれば行くのか」といった問いが立てられていたからです。私が知りたかったのは、「なぜ私はあの時、あんなに苦しい思いをしたのか」「そもそも子供は必ず学校に行かないとダメなのか」ということでした。
そんな時、学部の授業で社会学との出会いがありました。そこでは「子供が学校に行くのが当たり前とされる社会とは何か」「それはいつから・どのようにできたのか」という問いが立てられていました。目からうろこが落ちました。
戦後の長期欠席のグラフはU字型です。長期的にみれば、社会が近代化していない段階では、経済的に貧しかったり親が無理解だったりして、子どもの長期欠席は大変多いんです。それが近代化の過程でだんだん減っていき、底を打つのは1970年代半ば。これは日本社会が一定の近代化を達成した時期と重なります。この頃、第三次産業従事者が第二次産業従事者を上回り、専業主婦率が最高となり、高校進学率が90%を超えます。そして、「学校にいき企業に就職する=社会とつながる」という等式が成立します。これ以降、長期欠席は増加に転じます。学校は近代化のための装置だから、近代化が達成されたら役目は終わり。何のために登校するのか分からなくなった子どもたちがさまざまな理由から学校を離れ始めるのは不思議ではありません。人びとが何を問題と見なし、何に苦しむかということも、社会の影響を受けていると知りました。私はずっと自分を「社会」に入れない人間だと思ってきたけれど、不登校経験を持つ私自身もすでに「社会」に組み込まれていたと分かったのです。

貴戸准教授のインタビューは(2)まで続きます!

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