[ 法学部 ]ソーシャルアプローチの歴史

関西学院大学法学部は『ソーシャルアプローチ』という理念を掲げています。
これは初代法文学部長のH.F.ウッズウォースの言葉です。
この理念がどのような思いから生まれ、法学部の創設に関わったのか。
そしてその後の法学部の教育にどう引き継がれていったのかを歴史資料とともにみていきましょう。

『関西学院大学法学部50年史』より

「法学科が新たに設けられた背景として、大石兵太郎は、「大学事始」の中で、阪神地方には法学部を持つ大学がわずかひとつ(関西大学)にとどまっていたこと、それまでの法学部教育は単に高等文官試験の準備教育に堕したり解釈法学に偏する傾向があったが、その弊を避けて新たな学風を打ち立てる絶好の機会であること、、、を指摘する」「後になって、三戸寿は、H・F・ウッズウォース博士は口癖のように「ソーシャル・アプローチ」の言葉を使っていたと述べつつ、ウッズウォース博士は大石と同様に、官僚の養成、法律マニアの養成とは異なる、もっと広い社会の眼をもった、そしてキリスト教的な意味で社会への貢献をいつも念じている若き世代の育成をもって使命とすべきであると考えられていたと説くが、かくして法学科の基調を「社会学的な法理論の教授」(大石「大学事始」)に置くことで一致を見ていくわけである。」
林紀昭教授 5-6頁

「<中略>京都大学法学部が、戦前期には幾度も実施していた法律学科と政治学科の区別を1949年11月の法学部規定で採用しなくなったのに対し、本学法学部がこれを維持した背景には、戦前から推進してきた「法学の社会学的研究」の教育理念には、キリスト教主義の下で民主主義の立場に立って日本の法律学・政治学の再建と新たな発達を課題として行われる法学部教育・研究において、一層正統性が認められるとの確信があったと、『法と政治』創刊号の大石兵太郎学部長の『創刊のことば』から読み取ることができる。<中略>
 『<上略>本学創設以来、法学部門にたずさわれた諸先輩は一人の例外なく、自己の方法的立場を広い意味に於てのいわゆる社会学的方法に求められたが、われわれの学風はここに見出されるべきであって、現下の事態はこうした立場の正統性をいよいよ確信せしめる。』」
林紀昭教授 37-38頁

「しかし法学部門が順調に滑り出し得たについては、部長始めこれらの人々の尽力のほかに、当時の世論を喚起した京大の滝川事件が期せずして我々に幸いしたことをあげねばならないであろう。
「我々として最も重要視した関心事は、この法学部門をして異色ある存在たらしめるために如何なる学風を形成すべきかということであった。、、、その間次第に各位の立場が明らかとなり、我法学科は単なる高等文官試験の準備教育に堕したり解釈法学に偏することを極力避けねばならぬ。常に社会学的な法理論の教授に努めようということに一致した。これが我々が法学部の学風として標榜してきた、いわゆる法学の社会学的研究の意味である。
<中略>ここに私はこれ等諸賢の法学部建設のために尽くされた功績を想うと同時に、これらの創設者が意図せられた我法学部の学風について特別の注意を喚起したいと思う。」
大石兵太郎「大学事始」1949年、341頁

「私はその年8月京大事件によって京大法学部(副手)を辞職した直後であったので、、、教授のご好意ある申し出に感謝し、取りあえず西宮の関西学院大学に出かけ、院長ベーツ博士と法文学部長就任予定のウッズウォース博士にお目にかかったが、その時御両人から特に強調されたのは、この大学では学問の自由は必ず十分に尊重するということであったので、私も快く働かしていただきたいといって、その日の会談で赴任を内定し、数日後ベーツ院長から、理事会の決定を経て赴任決定のお手紙をいただいた。

<中略>

法文学部ウッズウォース教授が開講にあたって特に強く希望されたのは、法学における社会学的アプローチということであった。簡単にいえば、当時我国一般の大学特に国立大学における一般的傾向としてみられたいわゆる高等文官試験偏重の傾向に追従しないでほしいということであった。もともと明治時代に管理養成機関として出発した東京大学の伝統が、それと異なる趣旨で設立された、政府の所在地から遠くはなれた地に設立された国立大学にいつしか深い影響を与えていたことが、外国人教授の目からみると極めて不自然にみられていたようで、この点はその後も事あるごとに強調されて、大学人として官僚臭のない教養ゆたかな、社会的感覚のすぐれた、奉仕の精神に富んだ知識人、教養人としての卒業生を世におくり出したいと言っていられた。これは法学教育をその本質においては最高の社会教育だと考えたギリシアのプラトン以来の(近世自然科学確立までの)2千年にわたるヨーロッパの大学の精神的伝統にみられる、宗教(哲学)教育、社会教育、医学教育のための、神(哲)学部、法学部、医学部という思想の中にはぐくまれ、幾多の宗教的また世俗的権力との戦いの歴史の中で鍛え上げられた大学思想が根本にあったのではないかと思われた。」
石本雅男「法学部創設時代のおもいで」348頁

「法学部の教育理念は、周知のとおり、初代法文学部長H・F・ウッズウォースが掲げた「ソーシャル・アプローチ」である。これは、社会の実態から遊離した官僚法学や法解釈学を排除し、法の背後にあり法を動かすもの、あるいは法の保護から取り残された社会的弱者に目を向けさせる視点を提供するもので、わが法学部の発展と共に今日に至るまで脈々と継承されている。その現れとして、次の三点を挙げることができる。第一は、わが法学部は、基礎法学科目の充実とそれを支える専任教員が確保されている点である。法哲学のみならず他の大学に先駆けて法社会学の講座を有し、かつ法制史においても、日本、西洋、東洋の三本の講座をもつのは全国の大学でも珍しいということができる。第二は、政治学関係科目の充実である。政治学は法律学と密接な関係をもつが、わが法学部は10名の専任教員が独自の講座をもち、かつ政治学科として独立しているのは、やはり特色ということができる。第三は、実定法科目を担当する教員の研究志向が実用法学よりも理論・政策・歴史を重視する傾向にあることである。このアカデミズムの傾向は、法政学会の機関誌である『法と政治』に所掲の関係論文を紐解けば容易に窺い知ることができる。」
田上富信法学部長 「発刊の言葉」『50年史』


「学院法学教育のソーシャル・アプローチという健全なプロテスト精神を基底とし、、、、」
山内一郎 院長 『50年史』

「99年秋現在では、全国の法学部と同様本学部もロースクール構想をめぐる動きに翻弄されている。ロースクール問題に真摯に取り組むことは、法曹教育に関わるものとしては当然のことであろう。しかし、もし法学法曹教育が国家に対して緊張感をもって自立する市民によって支えられるべきであるとするならば、民間の非営利組織(NPO)である私立大学、それも政治首都である東京との距離、また戦時中を含めてキリスト教主義を奉ずることによる政治権力との距離をもち、自覚的に市民社会の法学法曹教育を担う本学法学部の独自の役割を再評価するべきであろう。 このことは実定法に関する教育のみに関わるのではない。 政治学は、政治的抑圧の下でも市民の政治的無関心の中でも育たない。この意味で政治学の存立の余地は市民社会の自立性の関数であると言える。基礎法や政治学の教育・研究が、将来の法学部でもつ役割も、また法曹養成や広く法学教育に占める位置も、本来、我々がどのような市民社会を形成しようとしているのかにかかっているのである。 法学部は、90年代には歴史上の最大教員定員をもつまでに発展してきた。しかし、もしロースクールが制度化されるとするならば、それにともなって何らかの制度的激変を経なければならない。このような状況下では容易に将来を見通すことはできない。 しかし、ロースクール化の問題のみならず、上述の諸変化に対する状況適応をより能動的に展開するためには、少なくとも創立以来の「ソーシャルアプローチ」という理念の現代的な再解釈を含む新しい理念的方向性の提示が必要であるように思われる。しかも、それは単に字句上の再定義というよりもむしろ、具体的な重大な意志決定に直面して、現実的な再定義なくしては方向性を考えることができないという水準で、必要となるだろう。本学部の50年の伝統は、この理念のさらなる再定義において、かけがえのないよりどころとなるであろう。」
岡本仁宏 139-140頁