2024.07.01.
【原田ゼミ】アダム・スミス『国富論』初版(1776年)の本物を図書館で閲覧

本多 深眞

はじめに

写真1:スミス『国富論』(初版、1776年)と原田ゼミ3回生一同

 原田ゼミ3回生(8期生)は、5月13日に大学図書館の特別閲覧室にて、貴重図書として所蔵されているアダム・スミス『国富論』(1759年)の初版を閲覧した。
 初版は大判で2冊分になっている(以下、第1分冊をⅠ、第2分冊をⅡと記載)。

スミス『国富論』の初版に触れる

写真2:初版Ⅰのタイトルページ

写真3:「序文および本書の構想」初版Ⅰ、p.1

 写真3は『国富論』の最初の「序文および本書の構想」である。
 「すべての国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品や便益品のすべてをその国民に供給する、もともとの原資であって、それらのものはつねに、その労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである」
(水田・杉山訳(一)p.19)

写真4:初版Ⅰ、p.70

 写真4の訳は「したがって自然価格は、いわば、すべての商品の価格をたえず引き寄せる中心価格である。様々な偶然が価格を自然価格よりもずっと高く吊り上げておくこともあろうし、それよりもいくらか引き下げることさえあるだろう。しかし、 価格がこの静止と持続の中心に落ち着くのを妨げる障害が何であろうとも、価格はたえずこの中心に向かっているのである。」(水田・杉山訳(一)p.108)

写真5:初版Ⅰ、p.32

 写真5の訳は「どの個人も、自分の自由になる資本がどれほどであろうと、そのためのもっとも有利な仕事 を見いだそうと、たえずつとめている。彼の眼中にあるのは、まさに彼自身の利益であって、その社会の利益ではない。しかし彼自身の利益の追求が自然に、あるいはむしろ必然的に、その社会にとってもっとも有利であるような仕事を彼に選ばせるのである。」(水田・杉山訳(二)p.300。ただし下線は本多による。以下も同じ)
 この文章からは公共のためにとかより良い社会をするためにとかよりも結局、自分の利益追求こそが社会に良いというなんとも言えないような文章が個人的に興味深かった。アダム・スミスなりの自己愛の優先を主張する文章であると解釈した。

写真6:初版Ⅱ、p.35

 写真6は重要な段落なのでその全体を示すが、10行目の “By preferring”からの訳は次のようになる
 「国外の勤労よりは国内の勤労を支えることを選ぶことによって、彼はただ彼自身の安全だけを意図しているのであり、またその勤労を、その生産 物が最大の価値をもつようなしかたで方向づけることによって、彼はただ彼自身の儲けだけを意図しているのである。そして彼はこのばあいにも、他の多くのばあいと同様に、見えない手に導かれて、彼の意図のなかにまったくなかった目的を推進するようになるのである。またそれが彼の意図のなかにまったくなかったということは、必ずしも常に社会にとってそれだけ悪いわけではない。自分自身の利益を追求することによって、彼はしばしば、実際に社会の利益を推進しようとするばあいよりも効果的に、それを推進する。公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったく知らない。たしかにそういう気どりは、商人たちのあいだであまりよくあることではなく、彼らを説得してそれをやめさせるには、ごくわずかな言葉しかつかう必要はないのである。」
(水田・杉山訳(二)p.303-304)
 ここに有名な「見えない手」があった!それに続く文章(下線部)はアダム・スミスなりの尖った発言が見られ、他者への愛よりも自己の利益追求に従い、この自己愛を使うことで結果的に市場を通じてみな利益が得られるという考えが見られる。

終わりに

 初めて『国富論』について数少ない由緒ある初版を生で見て、まず本そのものに何かオーラを感じた。そしてこのような機会を経て『国富論』についてだけでなく、それ以外の『道徳感情論』やアダム・スミスに関する書物の興味が今回の体験でより一層深まった。
 最後に、いつもご協力いただいている関西学院大学図書館の井戸田史子氏と経済学部資料準備室の斧田真理子氏に厚くお礼申し上げたい。写真の掲載については貴重図書・古文書資料画像利用許可書をいただいている。
 上記の水田・杉山訳とは、水田洋監訳・杉山忠平訳、アダム・スミス『国富論』全4冊、岩波書店2000-01年のことである。