2014.12.03.
「われら関学経済人」 野原 美隆 さん

【卒業年月】 1975年3月
【名前】  野原 美隆 (ノハラ ヨシタカ)
【出身高校名】 布施高校
【研究演習名】 小寺 武四郎 教授 
【勤務先】 株式会社アクセス (前職:パナソニック株式会社)

※ 本ページの内容は2014年12月現在のものです。

これまでどんな仕事をしてきましたか?

ハラスメントを受けたとき

野原美隆さん(中央)

 松下電器貿易(現パナソニックと合併)に入社、30余年に亘り、海外での新規市場や新規事業の開拓を手掛けました。松下の経営理念や商人道を実践、多くの困難に挑戦して失敗や成功の経験値を得ました。1979年に北京で業界初の家電展示会を開催、松下幸之助の出席により対中ビジネスが開始しました。1988年にオーストリアに駐在、東欧に自社販売網を構築して直取を開始、東欧専用AV商品を導入してパナソニックをトップ・ブランドにしました。1995年にドイツのカメラメーカーのライカ社とのOEMを開拓、ライカレンズをルミックス・カメラに採用してカメラ事業の基盤をつくりました。2001年に欧州の市販電池事業を再構築、AV市販電池の新規導入、上海万博ではエボルタ乾電池を新発売しました。2005年に松下幸之助が考案した電球の自転車ライトをLED化、大手自転車メーカー、ジャイアントとのコラボでLED自転車ライトを世界市場に導入しました。定年後はヘッドハンティングで自動車業界に入り、商社の海外責任者として、今も世界中を飛び回っています。

経済学部ではどんな学生でしたか?また、どんなことを学びましたか?

 “世界中を飛び回る商社マン”が夢だったのでESSに入部しました。当時のESSには200名もの新入生が入り、全学年では400名のマンモス・クラブになり、多くの学生と外国ムードに圧倒されました。活動はディスカッション、ディベート、スピーチ等の5セクションに分かれ、英語の実力は日本のトップクラスで、多くの先輩が英会話ビジネスで活躍、同級生はスピーチやディベートのコンテストで優勝をしました。最初の頃は国際経済の勉強に励みましたが、3年生になって部活の責任者になるとESSが全ての学生生活になりました。所属のディスカッションは対外活動が活発で、東京の大学(慶応、早稲田、上智他)や外国の大学(米のスタンフォード大学、韓国の延世大学)との交流会も有りました。部活は政治・経済の課題について資料を収集・分析、自分の意見を論理的に英語でディスカッションをして賛同を得て結論を出すものでした。  経済学部で得た国際経済の知識とESSでの活動は私の夢の実現に向けての道を切り開くことになりました。

今の経済学部生にメッセージをお願いします!

 2008年のリーマンショックと直後の70円台の超円高により多くの日本企業は経営危機に陥り、生き残りを賭けて構造改革や事業のグローバル化を推進、人材採用の比重も日本から海外にシフトしています。グローバル化の波は教育現場にも押し寄せて政府は日本の大学から世界で活躍できる人材を輩出し、世界で存在感を示すスーパーグローバル大学(SGU)を選定・支援することになりました。これからの企業が求める人材(学生)とは、夢を持ってチャレンジする人、資質は異文化を理解し、単なる語学力では無くて英語コミュニケーション能力を持って外国人と信頼関係を築けるグローバル人材です。  関学はSGUに選定され、創立者ランバス博士の”真の世界市民として世界万民の為に貢献する”思想を持ったグローバル人材の育成をすることになりました。学生時代に建学の思想を学ぶと共に、何でも良いので徹底的に打ち込み、何かを極めたグローバル人材(学生)になって下さい。

これから経済学部を目指す高校生にメッセージをお願いします!

 小さい頃は鳥のように空を飛ぶのが夢でしたが、大きくなるとパイロットになって飛行機で空を飛ぶのが夢になりました。高校生の頃になると視力が落ちたのでパイロットの夢を諦め、代わって、飛行機で世界中を飛び回る商社マンになるのが夢になりました。夢の実現に向けての最初のステップは志望校の選択です。関学は大企業、特に関西系の商社には就職が有利と聞いて迷わず決めました。次のステップでは、海外で活躍するには国際経済の知識と英会話の修得が不可欠と考えて経済学部を目指し、入学後にはESSに入りました。  人は夢が有れば、どんな困難でも挑戦し、苦労にも耐えて、自分の道を切り開くことが出来ます。夢の実現に向けて頑張っている人にはオーラが有り、多くの人を引きつけ、協力を得て、いつの日か夢を実現することが出来ると思います。経済学部に入り、グローバル人材となって世界で活躍して下さい。

~関学経済学部生からのメッセージ~「われら関学経済人」