同和対策審議会答申 (その二)

[ 編集者:人権教育研究室       2009年3月20日 更新 ]

第二部 同和対策の経過

一 部落改善と同和対策

明治四年に解放令がだされたことは、同和問題の画期的なでき事であった。しかし実質的な解放を保障する行政施策が行なわれなかった結果、その後しばらくして、みずからの努力で同和地区を改善しようとする自主的な運動が、同和地区住民のあいだから起ったことは注目されてよい。
明治維新につづいて起った自由民権運動に刺激され、社会の最底辺に抑圧されていた同和地区住民が自主的運動に走ったことは当然である。ルソーの民主主義思想をはじめてわが国に移入した中江兆民とその門下の前田三遊は、しきりに同和問題を論評して同和地区住民の自覚を喚起することに努めた。その影響を受けた青年らが中心となり、岡山県の一角に「備作平民会」という改善運動団体が生れたのは、明治三五年六月で、これが同和地区改善運動の先駆となった。
備作平民会は、「先ず同族間の積弊を廓清し、しかる後外に対して鬱屈を伸べんとする」方針のもとに、風教改善、道義の鼓吹、殖産教育の奨励、人材の養成などを積極的におこない、自主独立の基礎を固め、しかるのち社会に向って反省を促そうとするもので、内部改善主義の典型ともいうべき主張をかかげていた。
ついで、明治三六年七月大阪市で「大日本同胞融和会」が結成された。この創立総会には東京、愛知、三重、京都、大阪、奈良、和歌山、兵庫、岡山などの各府県をはじめ、九州、四国の各地から三〇〇人にのぼる地区代表が参加し、全国的規模の集会となった。この総会で決定された活動方針も備作平民会のそれと基本的には変りなく、道徳の修養、風俗の矯正、教育の奨励、衛生の注意、人材の養成、勤倹貯蓄、殖産興業などをかかげている。いずれにしても大日本同胞融和会の結成は改善運動が全国的に発展したという意味で大きな意義が認められる。
日露戦争後、国の財政は窮迫し、国民の生活は物価騰貴のため困難を加えた。国力の回復と国民生活の安定が政府の緊要な課題となった。内務省は地方改善事業に力を注ぎ、模範町村の設定を奨励指導した。ところが、関西地方の府県知事は、同和地区があまりにも劣悪な状態にあるため直ちに模範町村などをつくることの困難なことを訴えた。その後政府は、明治四〇年に全国の同和地区調査を行ない、奨励金を交付して「模範部落」や改善功労者を表彰することとした。かくて大阪、和歌山、兵庫、奈良、京都、三重などの各府県で、地方改良事業の一環として部落改善事業がとりあげられるにいたったのである。
ついで、大正元年一一月七、八の両日、内務省主催の全国細民部落協議会が開かれ、教育、風俗、職業、住居、衛生、医療、納税、貯蓄、金融、社交、移住、宗教などあらゆる問題が論議された。その席で当時の地方局長水野錬太郎は「部落を完全に改良して国家のため有為の民たらしめ、もって国家を富強にしたい」そのためには、「地方の篤志家や有力者と協力し、官民合同で、精神と物質の両面から部落改良に努めねばならない」と、政府の見解を述べている。

こういう部落改良方策が具体的にはどのように行なわれたかを知るため、三重県の例をとってみよう。元内務省警保局長であった三重県知事有松英義は、県の慈恵救済員竹葉寅一郎というキリスト者を実際指導にあたらせ、警察署長や郡町村長が協力して各地区毎に「自営社」なる団体を作らせ「愛国心ヲ扶殖シ人道ヲ啓発シ清潔法ヲ励行シ教育ノ普及ヲ計ル」改善運動を起し、生活改善、風俗矯正につとめた。このような改善運動を推進する自営社の規約の冒頭に「至仁ナル聖世ニ生レタル御蔭ナレバコソ吾等ハ今日ノ御恵ニ遭フコトヲ得タルヲ有難ク思ヒテ毎朝三拝スル事」と規定している。当時の部落改善施策の慈恵的な性格を端的にあらわしたものといえよう。
大正時代における民間運動を代表する「帝国公道会」は、大正三年六月大江卓の発起で創立された。その趣意書に「同胞中今日猶ほ頑めい固ろう、日常相互の交際に於て聖旨の在る所を忘失し、人道上の大道を無視して恬然恥ずべきを知らざる者尠しとせず。是れ実に我社会の一部に未だ全く蛮国を脱却せざる者あることを表明するものにして、吾人の国家の為めに決して袖手傍観するを得べき所にあらざるなり」と述べているごとく、その意図するところは、社会一般の迷蒙を打破せんとする人道主義の同情融和運動であった。
一方、この時期に、同和地区の人びとの自覚に基づく自主的な改善運動が勃興したことに注目しなければならない。すなわち、大正元年八月奈良県に「大和同志会」が結成されたのをはじめ、福岡県に鎮西公明会、広島県に福島町民一致協会、島根県に出雲同志会、岡山県に岡山県同志会が相次いで結成され、部落改善運動が展開された。これらの団体はさきに引例した明治時代の三重県における自営社とは性格を異にし、上からの奨励による官製の団体ではなく、下から同和地区住民の自主的な団体として組織されたのである。前記の細民部落協議会に和歌山代表として出席した岡本彌が内務大臣平田東助に提出した要望書は、当時の改善運動指導者たちの見解や主張を代弁している。すなわち、

一、部落特有の職業は成るべく改めしむるよう奨励し、皮革の如き厭ふべき臭気ある職業は人家稠密の場所には禁止すること。又履物直しその他見苦しき職業は取締規則を設け体裁を改めしむるようの処置を希望す。
一、細民の住屋は採光と煙出しの不備より、眼疾を招くこと多し。又便所の設備概して不完全なり、府県には家屋建築条例を設け一定の猶予期間を与えて、漸次改造を命じられたし。
一、住居道路溝渠の掃除に就いても、取締規則を制定せられたし。
一、部落の人口は益々増殖し細民は益々増加す。他へ移住策について格別の考慮を払はれたし。
一、部落特有の疾患にトラホームあり、これが根治については格別の施設を願ひたし。
一、部落の弊風は一朝一夕で醸成されたものではないので、単に指導奨励丈では到底改善さるべきとは思はれない。国家として相当の助成金を支出されるよう、御配慮願いたし。
一、 部落の改善に、部落民の自覚は最も肝要の次第なるも、部落民の自覚を障害しているものは一般民の差別行為である。以下二三の実例を具陳せん。
【1】 官衙公署は勿論、会社工場には部落民を使用されていない。部落民の教育が進まないのは、皆これに原因している。
【2】 小学校、中学校は勿論、専門以上の学校に部落民の入学は甚だ困難である。学校内に於ける差別撤廃は部落民の就学心を向上せしむる唯一の方法である。
【3】 相当学識を有するものは、努めて官公署に任用することともならば、部落の人心を鼓舞激励し、教育は奨励を待たずして進歩すべきことと信ず。部落改善は、つまり富の向上を図ることである。
一、部落民なるが故に営業上に又農民の小作上に於いて、不利な立場におかれている実例は少なくない。是等差別的行為の除去に努力されたし。
以上のごとく、明治、大正時代の部落対策の改良主義的特徴は、同和地区住民の生活実態の劣悪性がわが国の社会経済体制の病理に由来することを理解せず、ただ単に地区住民の主体的条件を改善整備することによって同和問題の解決が実現されるとの認識にあったのである。

二 解放運動と融和対策

同和問題が政府をはじめ広く社会一般から注目され、深い関心を持たれるようになったのは、大正時代後半のことであり、その契機となったのは七年七月勃発した米騒動と、一一年三月結成された全国水平社の運動である。
米騒動は、米価の暴騰により生活難に陥った広範な低所得階層の憤激が自然発生的に暴動化したものである。この暴動に京都、岡山、広島、津、名古屋等の都市に同和地区住民が、勤労者や市民など一般大衆とともに多数参加し、激烈な行動に出たことは事実である。また、滋賀、奈良、和歌山、富山、香川、山口、福岡等の各地で地区住民が暴動に参加したことも事実である。けれども、同和地区住民のみで米騒動を起したのでもなければ、差別問題が原因で暴動化したものでもなく、また、同和地区住民が計画的、組織的に暴動を指導したものでもなかった。しかし、第一次大戦の経済的影響による未曾有の好景気のなかで、同和地区住民の大多数が差別の中の貧困ともいうべき劣悪悲惨な生活状態におかれていたことと相まって、多年にわたってうっせきした差別圧迫と憤まんが爆発して、多数の地区住民をして米騒動に参加させた。政府をはじめ社会一般の関心は、そのような反社会的エネルギーが潜在する同和問題の深刻さと重大さに集約される。言いかえれば、米騒動によって同和問題は新しく再発見され、重大な社会問題として認識されたのである。それを立証したのが、帝国公道会主催の同情融和大会であり、大正九年度の予算に地方改善費が五万円計上されたことである。
帝国公道会が東京築地本願寺で第一回同情融和大会を開催したのは大正八年二月であった。大会には貴衆両院議員、関係各省大臣をはじめ、華族、学者、宗教家および同和地区の有力者など四三〇余名が出席した。
大会宣言をみると「もしこれ斯の如くして其途を改めずんば彼等の内過激思想を抱くものに至っては、或いは社会を呪詛するものを出すなきを保すべからず」とのべ、為政者の反省を促している。この大会に参集した同和地区の有力者たちは別に会合を持ち対策を協議した結果、内務省、陸軍省、海軍省、文部省などの関係各省および各政党に対し、部落改善に関する陳情を行なうとともに、翌三月第四一帝国議会に請願書を提出した。ついで大正一〇年二月第二回同情融和大会を開いたが、この大会には全国各地の同和地区代表が多数参加した。大会のあと和歌山県、広島県、山梨県等の同和地区有力者数名が実行委員に選ばれ、関係各省に陳情して部落改善施策の積極的な実施を要請した。
そしてさらに、第四二帝国議会に次のような請願を行なった。

一、部落民を官公吏に採用すること。
一、官公文書、身元調査等に特殊部落又は其他忌むべき文字を記載せしめざること。
一、軍隊内に於ける差別待遇を廃止すること。
一、教育上に於ける差別待遇を廃止すること。
一、部落改善団体を組織すること。
一、部落改善調査機関設置のこと。
一、部落改善費は国庫より支出せられたきこと。
一、内務省に部落改善事務の局課を設け、専任の官吏を置くこと。
一、地方庁内に社会課を設け、部落改善の専任の官吏を置くこと。
一、北海道に団体移住する戸数の内規制限を撤廃すること。

この請願の内容は、当時の同和地区指導者たちが同和対策としてどのような具体的施策を要求していたかを知る好資料である。それは一言でいえば、明治、大正初期の改良主義運動と基本的には変りない要求であるが、内部改善第一主義から脱却して行政施策の要求に発展したという点で前進がみられる。
このような情勢のなかで政府は、全国部落調査を行なうとともに、九年八月新設された社会局の諮問機関である社会事業調査会の答申「部落改善要綱」を採択して行政方針を確立し、翌一〇年度には予算を二一万円に増額して施策の拡充をはかった。かくて、同和問題が政府の政策のなかにとり上げられたのに呼応して八年一〇月高知県公道会、九年八月岡山県協和会、一〇年三月広島県共鳴会などの新しい融和団体が相ついで結成された。また、全国的な組織を有する団体としては、有馬頼寧を会長とする同愛会が一〇年九月に結成され、この時期における民間団体の改善、融和運動はようやく全国的に拡がっていった。そして、指導理念や運動方針も、労働運動や社会主義の台頭、国際的潮流としての民族自決、人種平等の思想的影響をうけて、大きく変化した。すなわち、従来の部落改善を第一とする改良主義から差別撤廃に重点を置く融和主義の方向へと転換したのである。
このような融和運動に対抗して、大正一一年三月三日京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開かれた。近畿地方を中心に、中国、九州、四国、関東、中部各地方の同和地区代表約二、〇〇〇名が参集し、会堂にみなぎる悲壮な感激と異常な昂奮のなかで、人権宣言ともいうべき全国水平社結成の宣言が発表され、つぎのような運動方針の大綱を示す綱領が満場一致で採択された。

一、我々特殊部落民は、部落民自身の行動によって絶対の解放を期す。
一、我々特殊部落民は、絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し、以て獲得を期す。
一、我等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向って突進す。

全国水平社は、改良主義の部落改善ではなく完全な解放を目指し、協調的な融和主義ではなく差別撤廃のため闘争する自主的団体として発足した。これは融和団体と根本的に異なる性格である。この全国水平社の運動は燎原の火のごとき勢いで全国的に拡がり、「我々に対し穢多及び特殊部落民の言行によって侮辱の意思を表示したる時は徹底的糾弾を為す」という大会決議が実践にうつされたため、初期の段階において一面では反社会的現象もあらわれたことは否定できない。けれども他面において、同和地区住民の基本的人権に関する自覚を高めたこと、部落差別の不合理性についての社会的認識を普遍化したことなど、水平社運動が果した役割は大きかったといわなければならない。
全国水平社が結成された翌年の国の地方改善費予算は、一躍前年度の二倍を超える四九一、〇〇〇円に増額された。政府は、一二年八月内務大臣訓令を出して、差別的偏見打破の必要を力説するとともに、積極的に融和運動の奨励助成に努めたので、全国の関係各府県にもれなく融和団体が組織された。そして、さらに民間融和団体を統合した全国的連合体である中央融和事業協会がつくられ、平沼騏一郎が会長となり内務省の外郭団体として水平社の運動に対処する陣容が整えられたのである。
昭和五、六年にわが国農村を襲った農業恐慌に対処するため、政府は時局匡救対策を実施したが、そのさい同和対策の応急施策として貧困な地区農民を救済する事業が行なわれた。それが契機となって、従来の観念的な融和運動から自覚更生の経済施策に重点をおく運動へと発展した。そしてさらに昭和一〇年「融和事業の総合的進展に関する要綱」が決定され、それに基づいて昭和一一年度を起点とする「融和事業完成一〇ヵ年計画」なるものが立案された。その内容をみると、経済更生施策と教育文化施策を大きな二本の柱とし、経済更生施策としては、中堅人物の養成と自覚更生運動に重点をおき、教育文化施策としては、同和教育の振興と差別解消のための啓発教育活動に力点をおくものであった。このことは従来、無計画であった同和対策に総合、統一性と計画性とを与えたという意味で、画期的な意義を持つものであった。しかし、政府はその計画を全面的に採用する予算措置を講じなかったので、折角の計画も中途半端におわり、やがて太平洋戦争の勃発により同和対策は戦争政策の犠牲にされ、険しい時局の暗闇のなかに埋没されてしまった。それと同時に、中央融和事業が指導する融和運動もまたしだいに国家主義の傾向を強め、戦争目的に順応する国民精神総動員運動の一翼と化し、本来の目的と役割とを喪失していったのである。

三 現在の同和対策とその評価

太平洋戦争に敗北した日本は、連合軍の占領下に置かれた。占領政策の方針として、同和地区を対象とする特別の行政施策は禁止されたので、政府の同和対策は中断され行政の停滞を余儀なくされた。
戦争によって荒廃した社会経済情勢のもとで、国民一般の生活は極度の窮乏に陥ったが、とくに同和地区住民の困窮が甚だしかったことはいうまでもない。しかも、部落差別はいぜんとして存続し、差別事件によるトラブルが各地で頻発した。つまり、戦後のいわゆる民主的改革にもかかわらず同和問題は未解決のままでとり残されたわけである。
このような情勢のもとで、昭和二一年二月「部落解放全国委員会」(のちに部落解放同盟と改称された。)が結成され、自主的な解放運動が再組織された。
戦後の部落解放運動は、水平社運動の伝統を継続し、その経験と理論の上に立って発展したものであるが、その特徴はいわゆる「行政闘争」を中心に同和地区を基盤として組織を拡大したことである。すなわち、部落差別についての認識を深め、従来水平社が行なってきた心理的差別に対する糾弾闘争から前進して、実態的差別の存在を強調し、その責任は行政の停滞にあるとして、地方公共団体および政府に対し部落解放の行政施策を要求する大衆闘争を全国的に展開するにいたったのである。昭和三三年に起こった教職員の勤務評定反対闘争に部落解放同盟が積極的に参加し、同和地区住民に大きな影響を与えたことはその顕著な一例である。また、部落解放同盟が労働組合や革新的政党と共同して、生活安定と権利擁護のための闘争や平和を守る闘争に積極的に行動するようになったことは注目される。
一方では、昭和二六年一一月、近畿、中国、四国、九州などの地方公共団体の同和対策関係職員を中心とする「全日本同和対策協議会」が生まれた。当初の数年間、全日本同和対策協議会は、部落解放同盟と提携協力し、政府に対して同和対策の積極的実施を要請する運動を行なった。しかし、結局指導理念を異にする両者の意見が対立し、ついに袂を分つにいたったのである。その後、昭和三五年五月、同和地区住民を中核とし、全国民運動をめざす「全日本同和会」が結成された。この二つの団体は、戦前の部落改善、融和運動の流れを継続し発展したものということができる。そしてこれらの民間団体はそれぞれの立場から、中断された同和対策の復活を強く要望し、総合的な同和対策を国策として樹立し同和問題の根本的解決をすみやかに実現するよう政府と国会に対して要請するに至った。

かくて、講和条約が発効してのち、昭和二八年度の国の予算に戦後はじめて、同和地区に隣保館を設置する経費の補助金が計上され、三一年度からさらに共同浴場、三四年度から共同作業場及び下水排水施設というぐあいに環境改善事業の予算が増額され漸次戦前の同和対策が復活していった。しかし、それは部分的な改善事業にとどまっていたので、同和問題の抜本的解決をはかる総合的対策の樹立を要請する声がしだいに高まった。そこで政府は、昭和三三年内閣に同和問題閣僚懇談会を設け、関係各省の行政施策のなかに同和対策をとり入れることとした。また一方、政党でも自由民主党、日本社会党がそれぞれ特別委員会を設けて同和対策を検討し、政策審議会の決定を経て各党が同和対策要綱を発表するにいたった。民間においては、昭和三五年に部落解放同盟を中心とする「部落解放要求貫徹請願運動」が全国的な規模で展開されたのをはじめ、全日本同和会および全日本同和対策協議会の国策樹立要請運動が強力におしすすめられた。その結果昭和三五年の第三五回臨時国会に、自由民主党、日本社会党及び民主社会党が人権尊重の建前から超党派的に連携して、同和対策審議会設置法案を共同提案し、国会は全員一致をもってその法案を可決した。
政府のこれまでの同和対策は、厚生省と文部省及び建設省の所管に属する行政施策が主なものであるが、同和問題閣僚懇談会が内閣に設けられてからのちは、モデル地区の設定に基づき総合的施策を実施する方向に進展し、労働省、農林省、通産省、自治省、法務省などの所管に係る各種の施策も新たに加えられ、国の同和対策予算も逐年増額されていった。このような政府の同和対策の発展にともない、その行政区域内に多数の同和地区を有する地方公共団体においても、政府の行政施策の実施に協力するだけでなく、独自の立場で自己の財政負担によって従来から行なってきた同和対策をより一層積極的に実施するようになった。
以上述べた戦後の同和対策を戦前のそれと比較すれば、一歩前進したことはたしかである。このことは正当に評価されなければならない。
本審議会は、以上概観した同和対策の経過にかんがみ、これまで政府によって実施された行政施策に対し次のような総括的評価を行なったのである。

【1】 明治の末から大正の初め頃までの政府による同和対策は、治安維持と窮民救恤の見地から行なわれた行政施策であって、その基本的性格は慈善的恩恵的なものであったことを否めない。ことに、当初地方改善行政の一環として行なわれた部落改善施策は、同和地区住民の自発的精神と自主的行動を基調とする生活改善運動として推進し発展させる方策がとられず、観念的、形式的な指導と奨励による風俗矯正にとどまったきらいがあった。
【2】 大正の中頃全国的に勃興した自主的な改善運動は同和地区住民の自覚のあらわれであったが、政府はそれにこたえて改善施策を積極的に行なうことをせず、限られた僅かな予算で改善事業を慈恵的に行なっていたにすぎなかった。
【3】 政府が同和問題の重要性を認識するに至った契機は、米騒動と水平社運動の勃興であった。また明治時代から現代に至るまで一貫して、政府の同和対策は多分に切実な要求と深刻な苦悩に根ざす同和地区住民の大衆的な運動に刺戟され、それに対応するための宥和の手段として行なわれた場合が多かった。
【4】 従来、政府によって行なわれた同和対策としての具体的な行政施策は、応急的であって、長期の目標に基づく計画性と複雑多岐な側面を持つ同和問題に即応する総合性とに欠けていたことは否定できない。このような行政施策の欠点は、いわゆる縦割行政の弊害から生ずるだけではなく、同和問題の根本的解決に対する政府の姿勢そのものに問題があったといわなければならない。

【5】 現段階においても、同和対策は一般行政に比し複雑困難な問題として扱われているかの感があるが、その正しい位置づけがなされないと差別的な特殊行政となるおそれがある。したがって政府によって行なわれる国の基本政策の中に同和対策を明確に位置づけ、行政組織のすべての機関が直接、間接に同和問題の抜本的解決を促進するため機能するような態勢を整備し確立することが必要である。
【6】 国と地方公共団体の同和対策が一本の体系に系列化され、政府、都府県、市町村、それぞれの分野に応じた行政施策の配分が行なわれ、国が地方公共団体の財政上の負担を軽減する配慮が十分になされるごとき組織的な同和対策が確立されていないことも、大きな欠陥として指摘される。そのため、同和対策を積極的に実施するところと、ほとんどそれを実施していないところと、地方公共団体の態度如何によって生ずる格差が大きく、全国的にきわめて不均衡な状態である。
【7】 国の予算に計上される同和対策の経費は逐年増額されている。しかしながら、同和問題の根本的解決をはかるために必要な種々の経費としてはきわめて僅少であった。政府が真実に同和問題の抜本的解決を意図するならば、なによりもまず、国が同和対策のために投入する国庫支出は、その社会開発的意義と価値を正しく認識し、飛躍的増大をはかることこそもっとも必要なことである。
【8】 以上の評価に立つと、同和問題の根本的解決を目標とする行政の方向としては、地区住民の自発的意志に基づく自主的運動と緊密な調和を保ち、地区の特殊性に即応した総合的な計画性をもった諸施策を積極的に実施しなければならない。

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