2024.10.01.
2024年の手話言語国際デーを覚えて
2024年の手話言語国際デーを覚えて
松岡克尚 人間福祉学部教授 手話言語研究センター長
今日は2024年9月23日、手話言語の国際デー(International Day of Sign Languages)、メモリアルなこの日に、この夏の一連の出来事を振り返ってみて、以下、徒然と思うことを記してみます。
今年はオリンピック年、前回の東京大会とは違って大勢の観客が戻り、パリでの日本人アスリートたちの活躍の興奮が冷めやらぬ間に、パリパラリンピックが開催され、こちらも日本のパラアスリートたちが日ごろの鍛錬の成果を発揮してくれました。何よりうれしかったのが放送や報道においてオリンピックとそれほど変わらない扱いになっていたことです。手に汗するゲーム展開がリアルタイムに放送されていたのは特筆すべきことではないでしょうか。
以前は、パラリンピックが始まったことが簡単に触れられていただけということもありましたが、今や有力な選手がテレビCMに出演するくらいで、昔日の感があります。車椅子テニスの小田凱人選手や走り幅跳びのマルクス・レーム選手のように「スター選手」が生まれてきたのも、障害の有無と関係なく純粋に「カッコいい」からであり、そこにスポーツの持つ力というものを感じさせてくれました。
そして来年、2025年は東京でデフリンピック夏季大会が開催されます。都内の他、福島県や静岡県も会場にして21の競技でメダルを目指した戦いが繰り広げられます。日本に世界中からデフアスリートたちが集まり、また多くの「カッコいい」姿に興奮し、スポーツの力を発揮してくれることを覚えると、今からワクワクしてしまいそうですね。そして、何より多くの国々の手話が交わされる中で、デフリンピックで「公用語」となる国際手話に直に触れて、世界における手話言語の多様性と魅力にまた人々が気づいてくれることを期待したいものです。そうした人々の意識と時代がまた一歩進んでいけたらいいですね。
話が変りますが、パリオリンピックが始まる少し前の7月3日、最高裁判所大法廷において画期的な判決が下されました。旧優生保護法で強制的に不妊手術(優生手術)を強いられたことに対して、個人の尊厳と人格の尊重をうたう憲法13条に違反することに加えて、障害者にこのような差別的な扱いを強いたことは憲法第14条の法の下の平等に違反すると、15人の裁判官全員一致で違憲判決を下したのです。そして、20年という除斥期間の今回のケースに適用することも「著しく正義・公平の理念に反し容認できない」と国の訴えを退けました。これを受けて、政府は原告との和解に入り、岸田首相が原告に謝罪の上で「障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた対策推進本部」が設けられ、国会では旧優生保護法の強制不妊手術の被害者に対する補償法の制定が超党派の議員によって着手されるなど、大きな動きがあったのは、記憶に新しいところです。様々な事情で自分が被害に遭ったことを訴えることができない人の存在、強制不妊ではなく強制堕胎された人の補償をどうするか、など課題はまだ山積していますが、それでもまずは一歩前進なのは間違いないところでしょう。
ろう者も、また旧優生保護法の下で強制不妊手術の対象にされていたこともご存知のことではないでしょうか。優生思想やオーディズムの下では「聞こえないこと」は、人間として「不良」であり、子孫に残すべきではないとして優生手術を強いられてきましたが、何より恐ろしいのはその悲劇を当然視してきた社会であり、それに個人的に違和感を覚えていたとしても結局は従ってきた医師などの専門家たちの「職業意識」、ないし「文化」ではないかと思います。
この度の最高裁判所の判決では3人の裁判官による個別意見が述べられましたが、その内の一人の裁判官の言葉が重くのしかかります。「旧優生保護法が、衆議院と参議院ともに全会一致で成立したという事実は、憲法違反だと明白な行為でも、異なる時代や環境の下では誰もが合憲と信じて疑わないことがあることを示唆している」と。私たちは、所詮はある社会、時代に制約された存在であり、そこから束縛されているという事実、それは自ずと私たちをして自己反省と省察を要請することになります。「自分も実は加害者、あるいは加担者ではないか?そうでなくても傍観して見て見ぬ振りをしていたのではないか?」「もしかしたら、今も何らかの加害者になっているのではないか?」「実は私たちがマイノリティの人たちの苦しみを強いているのではないか?」と。
パラリンピック、そして来るべきデフリンピックで、障害者、ろう者のスポーツでの活躍に賛辞を送り、手話言語への関心を高め、もって多様性の尊重へと社会や時代がまた変わっていくことは大いに歓迎されることは言うまでもありません。しかしそれを表面的なトレンド、一過性の流行に終わらせないためには、何よりも私たち自身の深い自省が必要であると思えてなりません。「私たちの手は本当に汚れていないのか?」と。つまりは、「自分も当事者」という意識が欠かせないように思います。
ユーフォリアというものは、残念ですがすぐ冷めてしまうのがその性質です。その熱気に煽られて、社会を変えようとしても、やはりどうしても一時的なもので終わってしまいがちです。様々なユーフォリアに触発されつつも、「自分は変わる必要ない」と思わずにエネルギーを内側にも向けて、絶えず自らを批判的に省みることによってのみ、時代はまた変わり、多様性と共生への道に進んでいけるのではないでしょうか、今年の手話言語の国際デーを覚えて自戒を込めて、そう思った次第です。ともあれ、今年の良い変化が来年にさらに広がって、いっそう確実になり、新しい時代への扉を開く、そんな展開を期待したいものですね。
2024年の手話言語の国際デー、おめでとうございます。