K.G.

分子の“指紋”に新しい見分け方 - 1個の分子の中に現れる模様の違いを捉える

Share
Facebook X LINE

立命館大学総合科学技術研究機構の石原一教授、関西学院大学理学部の田村守専任講師、大阪大学大学院基礎工学研究科の五十川弘行氏(当時博士後期課程)らの研究チームは、分子の中で電子がどのように広がっているかという新たな着眼点の理論により、これまで見えにくかった「分子の指紋」の違いを見分ける原理を明らかにしました。

本件のポイント

  • 広く使われてきたラマン散乱法に、1個の分子の指紋の違いを見分ける新しい理論を提案
  • 分子の中で電子がどのように広がっているかという情報まで取り入れることで、これまで見えにくかった指紋の違いが現れることを示した
  • 単一分子の違いをより精密に捉える道を開き、将来の材料解析や分子計測の発展につながることが期待される
研究成果の概要

分子には、それぞれ固有の「指紋」(分子振動1のパターン)があります。光を当てたときに返ってくるわずかな信号を調べることで、その分子に固有のスペクトル、すなわち「分子の指紋」を読み取り、分子の種類や状態を見分けることができます。指紋を読み取る際に用いられるラマン散乱法2は、物質を壊さずにその中身を調べられる分析法として、化学、材料、医療、薬品検査など幅広い分野で活用されています。近年は、たった1個の分子の指紋を調べる研究が進んでいます(図1)。こうした単一分子計測では、本来はスペクトルの違いとして読み取られる指紋が、分子の中で、実際の指紋のような空間的な「模様」として見えることがあります。

図1
図1 TERS顕微鏡(後述)のイメージ。基板と先端が鋭く尖った金属プローブチップの間に強い光電場が発生し、これによりラマン信号が何桁も増強して単一分子でラマンスペクトル(分子の指紋)を取ることができる。一方、右下図のようにプローブ位置を掃引することでラマン信号の空間的な模様も得られる。

今回の研究では、電子の広がり方のパターン(多重極構造3)まで取り入れた新しい理論により、1個の分子の中に、これまで見過ごされていた指紋の違いが、そのような模様の違いとして現れうることを示しました。この成果は、単一分子を見分ける新しい視点を与えるものであり、将来の材料解析や分子計測の発展につながることが期待されます。

研究の背景

ラマン散乱は、分子に光を当てたときに返ってくるごく弱い光の変化を手がかりに、分子の種類や状態を調べる方法です。分子ごとに異なる「指紋」を読み取れるため、物質を壊さずに中身を調べる分析法として広く使われています。最近では、金属探針の先に光を強く集める先端増強ラマン散乱(Tip-enhanced Raman Scattering: TERS)顕微鏡4により、たった1個の分子を観測する研究も進んでいます。
また、分子が光を吸収しやすい条件(電子共鳴5)を利用すると、ラマン信号が強まり、分子の中のより細かな違いが見えやすくなります。ところが、その信号の強まりを支える電子の動きは、従来の理論では限られた形でしか扱われておらず、分子内で電子がどのように広がっているかまでは十分に考慮されていませんでした。そのため、強くなったラマン信号が、単一分子の中のどのような違いを、どのような「模様」として映し出しているのかは、明らかになっていませんでした。

研究の内容

本研究では、電子共鳴によって強まるラマン信号の中に、従来は十分に見えていなかった指紋の違いが潜んでいるのではないかという仮説を立て研究を進めました。そこで、分子内で電子がどのように広がっているかまで取り入れた新しい理論を構築し、単一分子の信号がどのような空間的な模様として現れるかを解析しました。

図2
図2 (a)(b)はペンタセン分子の二種の指紋を空間的な構造がほとんどないa電子状態の共鳴を経て取得した場合。空間像の対称性が同じで識別しにくい。(c)(d)は同じ二種の指紋を空間的な構造が顕著な電子状態の共鳴を経て取得した場合。指紋が持つ本来の対称性が現れ、明瞭に識別できる。当該論文掲載の理論計算図より。

その結果、従来の見方では同じように見えていた指紋が、異なる模様として現れることが分かりました。特に、これまで考慮されてこなかった、空間的な広がりに特徴をもつ電子状態を通る過程が、単一分子の中に新しい模様を生み出し、指紋の違いをより豊かに映し出すことを示しました。これにより、強められたラマン信号の中には、従来の理解よりも多様な違いが潜んでいることを明らかにしました。

社会的な意義

ラマン散乱は、既に化学、材料、医療、薬品検査など幅広い分野で利用されている分析法ですが、本研究はその中に、単一分子の違いをより詳しく見分けるための新しい視点を与えるものです。とくに、従来は見過ごされていた指紋の違いを読み解けるようになることで、ごく少ない分子を対象とした高感度な分析や、機能性分子・有機材料の性質をより細かく調べる評価につながることが期待されます。今後は、実験との対応をさらに深めるとともに、より多様な分子や材料系へと適用を広げることで、分子計測や材料解析の新しい発展につながることが期待されます。

研究者のコメント

ラマン分光法やTERSは長く研究されてきた分野ですが、1個の分子の世界まで目を向けると、まだ見えていないことが数多く残されています。今回の研究では、これまで見過ごされていた違いが、単一分子の中で異なる「模様」として現れうることが分かりました。よく知られている分析法の中にも、まだ新しい発見の余地があることを改めて実感しています。今後、この研究をきっかけに、単一分子の振動や電子の状態がさらに詳しく分かるようになり、分子を調べる技術の新しい広がりにつながることを期待しています。

論文情報

論文名 : Electronically Forbidden Raman Pathways Create a New Contrast Mechanism in Single-Molecule TERS
著 者 : Hiroyuki Ikagawa, Mamoru Tamura, and Hajime Ishihara
発表雑誌: Nano Letters
掲載日 : 2026316日(月) 23:00(日本時間)
DOI  : doi.org/10.1021/acs.nanolett.5c06490
URL  : https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.nanolett.5c06490

用語説明

※1 分子振動
分子を構成する原子同士が、バネでつながったように伸び縮みしたり曲がったりする固有の動きのこと。物質の種類や構造によってこの「揺れ方のパターン」が異なるため、物質を特定する「指紋」のような役割を果たします。

2 ラマン散乱法
物質に光を当てたときに返ってくるごく弱い散乱光のうち、分子振動のエネルギーの分だけ波長(色)がわずかに変化した成分を読み取る手法。分子ごとに異なる「指紋」のような情報を与えるため、物質の種類や状態を調べる分析法として広く使われています。

3 多重極構造
電子状態や状態遷移の空間分布のパターンが、単純な一様分布ではなく、場所によって強弱や向きの違いをもつ構造。今回の研究では、このような電子の空間構造(パターン)を理論に取り入れることで、従来は見過ごされていた指紋の違いが現れうることを示しました。

4 先端増強ラマン散乱(Tip-enhanced Raman Scattering: TERS)顕微鏡
金属探針の先端に光を強く集中させ、その近くにある分子からのラマン信号を大きく強めて測る手法。通常のラマン散乱よりもはるかに細かい空間分解能で、単一分子レベルの観測が可能になります。

※5 電子共鳴
分子内の電子が光を吸収しやすいエネルギーに入射光の色(波長)が近づいた状態。この条件ではラマン信号が強くなり、分子内の、より細かな違いが見えやすくなります。