Interviews 学生 「正解のない問い」が教えてくれた、真の隣り人のあり方。
Introduction紹介文
幼い頃から抱いていた「神様の愛の実体を知りたい」という問いを胸に、神学部で学ぶ坂田さん。「ディアコニア(奉仕)」の授業を通じ、支援とは一方的なものではなく、互いに生かし合うことだと気づいたといいます。「正解のない問い」に向き合い続けることこそが、他者に寄り添う誠実さだと語る彼女。葛藤の中に学びの喜びを見出しながら、真の「隣り人」として共に生きる道を模索し続けています。
「信じている」のに「知らない」。神様との、不思議な距離を埋めるために。
私は幼い頃からクリスチャンの家系で育ち、祈りや賛美が生活の一部にある環境で過ごしてきました。けれど、ある時「一番近くにいるはずの神様のことを、あまり知らないのではないか」と気づきました。信じることと知っていることの間にある、不思議な距離。教会では「神様の愛」という言葉をよく耳にしますが、その愛とは具体的にどういったものなのか、理解できていないように思えたのです。
言葉だけが先行するもどかしさを解決し、イエス様の愛の実体を知りたい。そう考えて神学の道を選びました。関西学院大学を選んだ理由は、私のバックグラウンドと同じプロテスタントであり、「Mastery for Service」の精神に深く共感したからです。自分の信仰のルーツと学びが重なるこの場所なら、私が抱える疑問に真正面から向き合える。そう確信して、進学を決めました。
支えているつもりが、支えられていた。ディアコニアで見えた、真の「隣り人」の姿。
私が抱える疑問の答えを探す取り組みとして、今、最も熱中しているのが「ディアコニア(奉仕)」です。この授業では、刑務所の教誨師の方や、釜ヶ崎の支援団体の方など、様々な現場で活動する外部講師の話を聞き、受講生と話し合う中で「本当の意味で誰かの隣り人になるとはどういうことか」を自らに問い直します。
講師の方々が語る言葉の力強さや、生き生きとした表情を通して、気づいたことがあります。それは、支援とは一方的に与えるものではなく、互いに支え合う営みである、という実感です。
かつての私は、どこかで「自分は助ける側に回るんだ」と思っていました。自分は安全な場所にいて、困っている誰かに手を差し伸べる。それが良いことだと信じていたのです。しかし、誰かを支えるとき、実はその相手によって自分も支えられている。「助ける・助けられる」という一方通行の関係ではなく、互いに生かし合う「相互性」の中にこそ、神様の愛が働いているのだと知りました。
加えて、このプログラムは少人数で行われるため、そうした気づきを教科書的な知識にとどめず、それぞれの人生観や本音をぶつけ合うことができます。綺麗な言葉で飾るのではなく、心の奥にある葛藤さえもさらけ出し、共に考える。その「生きた対話」の時間こそが、私にとって最大の学びであり、喜びの瞬間です。
答えが出ないモヤモヤが、他者と生きる力に。問いのそばに留まり続けること。
神学部での学び、特にディアコニアの授業を通して直面した最大の困難は、「正解がない」という事実でした。高校までの教育では、問いには必ず用意された答えがあり、そこに早く辿り着くことが求められてきました。そのため最初は、議論を深めるほど答えが分からなくなる状況に焦ったことも。「結局、どうすればいいの?」と心の中で何度も問い返していました。学びとは、正しい答えを見つけることだと思っていたのです。
しかし、学びを重ねるうちに変化が訪れました。人の心や社会の問題は、数式のように解けるものではありません。「分からない」というモヤモヤした状態に留まり続け、安易な結論を出さずに相手と向き合い続けること。それこそが、複雑な心を持つ人間に寄り添う誠実さなのではないかと思うようになったのです。
今後の目標は、学びを通して得た「答えのない問いに向き合う姿勢」を実践に移していくこと。「隣り人になる」ことに決まったマニュアルはありません。知識で満足するのではなく、現実の社会の中で出会う一人ひとりの声に耳を澄ませ、共に生きるパートナーとしての道を、私なりに探し続けていきたいと思っています。
神学部で見つけた自分らしさ。人と人を繋ぐ架け橋を目指して。
私は将来、人と人を繋げる存在になることを目指しています。以前は人との関わりに少し戸惑うこともありましたが、神学部の学生会やサークルで仲間と本音を語り合う日々が私を変えてくれました。 ここで知ったのは、自分らしくいられる場所のありがたさと、支え合いの尊さです。まだまだ勉強中の私ですが、今度は私が誰かの安心できる場所を作りたい。隣びとを体現できる存在を目指して、一歩ずつ歩んでいきたいです。