1889(明治22)年に、アメリカ南メソジスト監督教会の宣教師W・R・ランバスが神戸原田に開校。私塾的なキリスト教主義の男子教育でスタートした。21年後にカナダ・メソジスト教会が共同経営に入り、その任に当たった宣教C.J.L.ベーツが、今日の関西学院の骨格を築いていった。後に大学昇格を目指して、西宮上ケ原にキャンパス移転を目論み、建築家ヴォーリズを起用したのは彼であった。
プロジェクトの背景
1929年開設の西宮上ケ原キャンパス ランドスケープ・デザイン“ヴォーリズ空間”
上ケ原は海抜50~70mの台地。ヴォーリズはビューポイント・甲山に向かって一本の主軸線を引き、線上にアクセスの公道を敷設させた。正門から甲山への上り緩斜面に芝生広場を、主軸線上に時計台図書館を置き、直交する副軸線上の左右に校舎を配して、スパニッシュ・ミッション・スタイルで統一。シンメトリーの景観を創り出した。
正門に立つと、視線は時計台を越えて甲山の頂に達し、さらに天空へと上昇する。崇高なものへ導かれていくような、キリスト教精神をバックボーンとする関西学院にふさわしい景観。
実業を通してキリストの福音を宣べ伝える志を秘めた建築家、ヴォーリズなればこそなし得たランドスケープ・デザインだ。
“関学の個性”スパニッシュ・ミッション・スタイル
大正末期から昭和初期にかけて、阪神間は大阪商人らの別荘地、郊外住宅地として発展し、欧米文化の浸透と共に生活の洋風化が進み、新しいライフスタイル「阪神間モダニズム」を築いていった。
スパニッシュ住宅が流行。ヴォーリズが採用した明るいスパニッシュ・ミッション・スタイルも、この文化潮流に添っていた。しかも、このモダニズムの世界で活躍、エンジョイした学院関係者や卒業生は大勢いたから、キャンパスの強い印象と相乗して、「関学と言えばあのスタイル」というイメージが定着していった。したがって、このスタイルを単なる建築様式ととらえず、「関西学院の個性の表象」としてキャンパス整備を進めることに違和感はなく、学院も積極的であった。