『学院探訪』

[ 編集者:吉岡記念館       2019年11月1日 更新  ]

クリスマスツリーの飾りつけ

esprit05jpn_img

クリスマスが近づくと、関西学院西宮上ケ原キャンパスでは時計台前のヒマラヤ杉がイリュミネーションで飾られ、時計台自体もライトアップされます。この習慣は学内だけでなく市民にもすっかり浸透し、関西学院の冬の風物詩として親しまれています。

クリスマスツリー点火にあわせて礼拝が行われるようになったのは、震災直前のことでした。1994年11月28日、日が落ちてすっかり暗くなった午後6時、ハンドベルの演奏と聖歌隊による讃美歌が流れ、学生や市民約700人がキャンドルを手に中央芝生に集まりました。

では、この電飾はいつから始まったのでしょうか? 神学部教授を務めたアメリカ人宣教師W. D. ブレイが1980年10月27日の最終講義でこう語っています。「紛争の時に図書館(時計台)前の大木が学生によって切り倒されましたね。その6年前から、クリスマスの時にその大木に赤や黄色の電球でデコレーションしていました。あれは私のアイデアです。ちょうど2万円かかったはず」。

さらに、世界に目を向けた時、ツリーへの飾りつけが最初に施されたのはいつ、どこの街だったでしょうか? これには諸説あるようですが、私はラトビア共和国の首都リーガ説に肩入れしたいと思います(リーガ市対外交渉局発行の冊子によると、キリスト生誕を記念して、1510年にリーガの商人らが初めてもみの木を花で飾ったそうです)。と言うのは、今から90年前の関西学院にはラトビア人教師イアン・オゾリンがいて、建国間もないラトビア領事の役割をも果たしていたからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 255, 2009.12)

ロシア人捕虜の子セネカ

esprit04jpn_img

この秋から放映されるNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)の舞台松山は、関西学院を創立したアメリカ南メソヂスト監督教会の伝道地です。そこに捕虜(俘虜)収容所が開設されたのは、日露開戦からわずか一月後のことでした。捕虜への対応が行き届いていたため、「マツヤマ」と叫びながら日本軍に降伏してくるロシア兵が後を絶たなかったと言われています。人口3万の街に延べ6千人以上のロシア兵が送られました。捕虜の中には子ども連れもいたようで、「浜寺に3人、静岡、姫路、松山に1人の小児あり」との記録が残されています。

当時松山にいた宣教師は、数年前まで関西学院で教えていたT. W. B. デマリーでした。デマリー家は、捕虜の子セネカ・ロモフ(8歳)を預かることになりました。セネカの父は、旅順で捕らえられた陸軍大尉でした。母親は既に亡くなっていたと思われます。言葉は通じなくても、子ども同士の遊びには何の支障もありませんでした。デマリー家の子どもたちは「戦争ごっこ」で撃たれた時のセネカの姿から、彼が実戦の場にいたことを知りました。

別れは突然やってきました。父親が迎えに来た時、セネカはパントリーに隠れました。デマリー家の子どもたちが見つけ出し、連れて来ました。父親が何か命ずると、セネカはデマリー夫人に駆け寄り抱きつきました。デマリー家の人々は涙を抑えることができませんでした。ところが、父の口から次の命が発せられるやいなや、幼いセネカはその後に従い、堂々と行進して行ったのです。その後の父子の消息は、まだわかっていません。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 254, 2009.10)

120年前のランバス一家

esprit03jpn_img

関西学院がウォルター・ランバスにより創立されたのは、今から120年前の1889年のことでした。その頃、神戸には、ウォルターとその妻デイジーに子ども2人、妹ノラ、弟ロバートとその妻アリス、さらに両親ウィリアムとメアリーの総勢9人の家族が揃っていました。

兄の親友である医師と結婚し、中国で伝道活動に従事していたノラ・パークは、妊娠中、両親のもとに帰っていました。ロバートは、新妻アリスを伴って来日し、徳島や神戸で英語を教えていました。1889年、この3組の夫婦に赤ん坊が誕生したのです。ノラとロバートは女の子、ウォルターは男の子を授かりました。山2番館はどんなに賑やかだったことでしょう。さらに、ロバートも学校(Kobe Institute)を創立しました。

翌年、幸せな家族に黒い影が忍び寄ります(1890年は神戸でコレラが大流行した年でした)。妻の体調悪化のため、まずロバート一家が、次にウォルター一家が離日しました。アトランタに落ち着いたロバートは家を用意し、両親の帰国を待ちます。ところが、父ウィリアムが病に倒れ、神戸で天に召されてしまうのです。さらに、妻アリスも死の床につきます。アリスは、幼いネティの養育を姑メアリーに託しました。早くに両親を亡くしたアリスにとって、神戸で夫の家族に囲まれて過ごした多忙な日々は、人生で最も幸せなひと時だったのかも知れません。

このような事情から、120年前に神戸で生を受けたランバス家の3人の子どもの内、ただ1人が神戸で育てられることになりました。メアリーは、アリスの遺児ネティを連れて神戸に戻り、末っ子ロバートが創立した学校を支えたのでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 253, 2009.08)

ベーツ先生の原点

esprit02jpn_img

関西学院は、1889年にアメリカの南メソヂスト監督教会によって創立された小さな学校でした。発展のきっかけは、1910年のカナダ・メソヂスト教会の経営参加です。しかし、これは同時に、南メソヂスト派、カナダ・メソヂスト派という対立関係を常に抱え込むことでもありました。この勢力争いや確執をバランスよく治めることに能力を発揮したのが、第4代院長を務めたカナダ人宣教師C. J. L. ベーツです。ベーツの見事な調整能力は、少年時代を過ごした故郷ロリニャルで培われたようです。

ロリニャルは、カナダの首都オタワとモントリオールのちょうど真ん中に位置する人口千人程の小さな村で、住民の3/4はフランス語を話しました。当時、この地域はフランス語人口が増加しつつあったのです。村には、大きなカトリック教会と3つの小さなプロテスタント教会がありました。少年時代のベーツは、日曜の朝は長老派、午後は英国国教会、夕方はメソヂスト教会に通っていました。この3つの異なる教会での祈り、礼拝、賛美の経験が、自分のライフワークの原点だったと晩年のベーツは振り返っています。

村人たちは、自分の文化と言葉と教会こそが一番だと信じていました。と同時に、寛容な精神と善意と互いを敬う気持ちにより、様々な問題を友好的に解決する術を身につけていました。ですから、ベーツたちが小さなメソヂスト教会を建てた時、カトリックの神父からさえも援助を受けることができたのです。教会の女性が献金を求めに行くと、ベルベ神父は優しく笑いながらこう言って4ドルを差し出しました。「プロテスタントの教会を建てるのに差し上げられるものは何もないけれど、敷地内の古い建物を取り壊せば何かお渡しできるでしょう」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 252, 2009.06)

アメリカ合衆国大統領と関西学院

学院探訪01_img

アメリカ合衆国第44代大統領にバラク・オバマ氏が就任しました。この機会に、アメリカの南メソヂスト監督教会により創立された関西学院と縁のあった歴代大統領を思いつくまま挙げてみましょう。

最初に思い出されるのは、第16代エイブラハム・リンカーン(1861-65)です。南軍兵士として南北戦争で戦ったJ. C. C. ニュートン第3代院長は、リンカーンの肖像画の付いた新聞を部屋に飾っていました。また、ニュートンがジョンズ・ホプキンス大学大学院でH. B. アダムズ教授の指導を受けていた時、後に第28代大統領となったウッドロウ・ウィルソン(1913-21)が同教授のもとで博士号を取得しました。学院史編纂室には、同大統領の小さな胸像が残されています。なお、ニュートンの名ジョン・コールドウェル・カルフーン(J. C. C.)は、第6代ジョン・クィンシー・アダムズ(1825-29)、第7代アンドリュー・ジャクソン(1829-37)両大統領時代の副大統領の名に因んで付けられたものです。

それから、第22代、24代大統領を務めたグロバー・クリーブランド(1885-89, 93-97)は、創立者W. R. ランバスの母方の親戚に当たると言われています。第26代セオドア・ルーズベルト(1901-09)時代の副大統領チャールズ・フェアバンクスが1909年に来神した際、吉岡美国第2代院長の話す洗練された英語に驚嘆したという逸話が残っています。

近いところでは、第39代大統領ジミー・カーター氏(1977-81)を千刈セミナーハウス(2005年10月より休館中)にお迎えし、聖日礼拝を守ったことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。それは、大統領辞任直後の1981年9月のことでした。カーター氏には名誉博士号が授与されました。 (学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 251, 2009.04)

全 3 ページ中、3 ページ目を表示中