関西学院を創ったひとたち:ランバス, W.R.

[ 編集者:吉岡記念館       2018年5月24日 更新  ]

お気に入りのポートレート-1904年頃(49才頃)-

10_お気に入りのポートレート

母メアリーお気に入りのウォルターの写真である。ウォルターの耳には、ランバス一族特有の特徴(大きく立っている)が見られる。この写真は、この特徴が目立ちにくい角度で上手に撮影されている。ランバス一族の耳の話は、一族が集う時の笑いの種であった。

広島での南メソヂスト監督教会宣教師会議に出席-1907年(52才)-

11_広島での南メソヂスト.

南メソヂスト監督教会全権代表として来日し、東京で行われた日本メソヂスト教会設立のための三派合同総会に出席。その後、神戸、広島と回る。ウォルターは最前列左から3人目。

アフリカ伝道-1911年(56才)-

アフリカ伝道ガラス容器

幼い頃からの夢であったアフリカ伝道を開始。第1回アフリカ伝道で苦労を共にしたジョン・ウェスレー・ギルバートとの肖像画が Paine College(米国)にて保管されている。なお、ウォルターはアフリカでは Kabengele と呼ばれていた。

写真右は、アフリカ伝道で使用したガラス容器。--ウォルターは1911年から14年にかけて2度アフリカ伝道に赴いた。 Kabengele という名で呼ばれ、ウエンボ・ニヤマの部族長の信頼を得たウォルターは、1914年 2月12日、ウエンボ・ニヤマ(現コンゴ民主共和国中央部)に最初のメソヂストの宣教拠点を開設した。そこには現在ランバス記念病院が建てられている。このガラス容器は、アフリカ大陸を2400キロも歩いたウォルターと苦労を共にした薬いれである。

東洋伝道-1919年(64才)-

13_東洋伝道

1910年に監督に選任されたウォルターは、この年から東洋伝道の担当となる。中国時代からの大切な韓国の友人尹致昊(ユンチホ)の父親と。中国では、「自分達の言葉を理解し、話す初めての監督」として熱烈な歓迎を受けた。中国名は藍華徳。

関西学院訪問-1919年(64才)-

14_関西学院訪問

10月30日、関西学院を訪問したウォルターは、朝9時よりチャペルで講話した。午後3時からは学生会館で行われた歓迎会に出席。原田の森キャンパスで、初代院長ランバス、第2代院長吉岡美国、第3代院長ニュートンが顔を合わせた。

父の墓に別れを告げる-1921年(享年66才)-

15_父の墓に別れを告げる

アジア訪問中に発病したウォルターは、1921年 9月26日、横浜で永眠した。遺骨は関西学院に運ばれ、神学部講堂で告別式が行われた。その後、小野浜外国人墓地(現時は修法ケ原の神戸市立外国人墓地に移転)に眠る父親に別れを告げてから、関西学院関係者の手により母メアリーの眠る中国上海へと運ばれた。

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