
研究者 身体からスポーツと社会を見つめ直す―太極拳が教えてくれる身体の可能性
今回は、スポーツ社会学と身体論を専門とされている倉島哲教授の研究内容について、インタビュー形式で紹介させていただきます!
「スポーツの前提を問い直す」という倉島先生の視点は、スポーツが好きな⼈にも、苦⼿な⼈にも、「そんな⾒⽅があるんだ」と思える⾯⽩さがあります。
倉島哲教授のプロフィール
倉島 哲(くらしま あきら)
関西学院大学社会学部教授。京都大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。京都大学人文科学研究所助教、英国マンチェスター大学客員研究員などを経て、2009年関西学院大学に着任、2014年より現職。専門はスポーツ社会学、身体論。太極拳の調査を通じて、社会と身体の相互的な関係を捉え直す研究を行っている。
スポーツ社会学の強み
倉島先生が、社会学の視点からスポーツを研究するのはなぜですか?
スポーツを研究する方法はたくさんありますが、社会学にしかできないことがあるためです。
それは、スポーツのさまざまな問題点を正面から受け止め、スポーツという制度それ自体を批判的に問い直すことです。
スポーツを問い直すとは、どういうことでしょうか?
他の分野と比べてみれば、スポーツ社会学の独自性がわかります。
たとえば、スポーツ⽣理学は、ケガのリスクを最⼩限に抑えつつパフォーマンスを最⼤化する⽅法を探求します。スポーツ医学は、スポーツが原因のケガの治療に加えて、予防にも携わります。これらの分野が、アスリートやコーチの要望に応えるものであることは確かです。
しかし、ケガの危険を冒してでもパフォーマンスを⾼めることを求めてしまう、スポーツという制度それ⾃体に問題はないのでしょうか︖
スポーツ生理学やスポーツ医学は、スポーツマンの要望には応えても、こうした根本的な疑問に答えてはくれません。
スポーツという制度を前提した分野は他にもあります。スポーツ経営学は、スポーツを活⽤したビジネスや地域活性化を研究します。スポーツ⼼理学は、アスリートのメンタルコンディショニングや、スポーツを通した連帯感や楽しみなどを研究します。
これらの分野はそれぞれ重要ですが、その内側からスポーツという⼤前提を問い直すことは困難です。
スポーツ社会学には、この問い直しができるのですか?
そのとおりです。社会学という分野それ⾃体が、当たり前の制度を問い直すものだからです。
たとえば、家族社会学は、男は仕事・⼥は家庭というジェンダー分業にもとづく家族制度を批判してきました。教育社会学も、いじめや不登校などの問題を正⾯から受け⽌めて、学校という制度それ⾃体を批判する⼒を持っています。
私が社会学の視点からスポーツを捉えるのは、こうした批判的な鋭さをスポーツに向けるためなのです。
スポーツと武術の違い
スポーツ社会学が専門の倉島先生が、太極拳を研究するのはなぜですか?
太極拳を研究することで、スポーツを問い直すための足場を作ることができるからです。
太極拳といえば、ふわふわしたダンスのような体操というイメージが思い浮ぶのではないでしょうか。たしかに、太極拳は健康体操として普及していますが、本来は武術として継承されてきました。
正しい身体の使い方を覚えるために、野球選手だって一人で素振りをしますよね?太極拳のダンスのような動作は、武術の技を身に付けるための素振りに相当します。
ただし、野球などのスポーツと太極拳などの武術には、大きな違いがひとつあります。スポーツには試合のためのルールがありますが、武術にはこれがないのです。
これは、⽇本や中国に古くから伝わる武術すべてに当てはまります。柔道や剣道のように、試合ルールが整備された武道が⽣まれたのは明治以降です。江⼾以前の武術には、練習⽅法としての型はありましたが、ルールのもとでの試合は基本的にありませんでした。
試合がないのなら、いったい何のために武術を練習するのでしょうか︖
もちろん、武術にルールがないからといって、腕試しができないわけではありません。
太極拳についていえば、練習⽅法のひとつに、推⼿(すいしゅ)というものがあります。⼆⼈で組み合い、双⽅が相⼿の体勢を崩そうと⾃由に動くのですが、そのさい、できるだけ⾃分の⼒を使わず に、相⼿の⼒を利⽤して技をかけることが⽬指されます。
私が着⽬しているのは、異なる流派が交流する推⼿の集まりです。
太極拳のみならず、柔道、空⼿、合気道、中国拳法など、さまざまな流派の経験者が切磋琢磨しています。そこには、相⼿にケガをさせてはいけないという共通了解はありますが、勝ち負けを決めるルールはなく、審判もいません。
そのため、何をもって勝ちとするかは、腕試しの当事者どうしが、相⼿と触れ合い、触覚的なコミュニケーションをとることでそのつど決まるのです。
もちろん、柔道やレスリングなどのスポーツでも、相⼿との触覚的なコミュニケーションはありま す。しかし、スポーツでは、ルールにもとづく審判の視覚的な判定が絶対です。当事者どうしの触覚的なコミュニケーションによって、勝ち負けの基準が変更されることも、判定が覆されることもありません。
スポーツと視覚の絶対性
視覚的な判定が絶対というスポーツの特徴は、他にも問題を引き起こしているのでしょうか︖
ルールに照らして、第三者の視点から当事者たちの⾝体に評価を下すスポーツという制度は、たしかに形のうえでは公平です。誰が⾒ても明らかな形で勝敗が決まるために、⾔葉や⽂化の異なる⼈々もスポーツを通して交流できるという⻑所もあります。
その反⾯、スポーツする⾝体に向けられる視線は容赦がなく、ときには暴⼒的でさえあります。敗北した選⼿がうなだれているのをテレビで⾒るのは胸が痛みますが、⼦どものスポーツにおいてはより深刻です。
たとえば、⾛るのが遅くいつもビリになる⼦は、体育の時間やマラソン⼤会では、周囲の視線が⾝体に突き刺さるように感じます。他⼈と競争することそれ自体が苦⼿な⼦や、他⼈に⾝体を⾒られることをたまらなく恥ずかしく感じる⼦もいます。
スポーツが求めるのは、このような子どもたちさえもグラウンドに立たせて、教師やクラスメイトの見守る中で競争させることです。そうすることでのみ、ルールにもとづく視覚的な判定の公平性は実現できるからです。
しかし、身体を視覚的な判定の対象とすることそれ自体が、一部の子どもに圧倒的な不利を押し付けることなのです。
問題は、これらの⼦どもたちが、たんに体育やスポーツを嫌いになるのみならず、⾝体を動かすことに対してさえ抵抗を感じるようになってしまう可能性があることです。
視覚の絶対性は、スポーツの得意な人にも影響しているのでしょうか︖
そのとおりです。スポーツがどれほど得意でも、ケガや故障のリスクと無縁でいられる人はいないでしょう。実は、このリスクにも視覚の絶対性が関係しているのです。
スポーツによるケガや故障の多くは、疲労や痛みを無視したり、我慢し続けたりすることによって起こります。「多少の無理をしてでもパフォーマンスを上げよう」という意識が問題なのです。
しかし、アスリートやコーチがこのような意識を持ってしまうのは、スポーツという制度それ自体が、ルールに照らして目に見えるパフォーマンスだけを評価するからです。
人間どうしのコミュニケーションでは、相手の疲労や痛みを感じ取ったり、尋ねたり、気遣ったりすることができます。しかし、ルールという一元的な視点のもとで優劣を争うとき、人間的なコミュニケーションの余裕はきわめて限定的です。
このような制度的な要因に目をつぶり、その結果として生じた「何としてでも負けられない」という意識を「根性主義」や「勝利至上主義」として批判することでは何も解決しません。
最後に一言お願いします。
ケガのリスクを冒してでも目標に向けて努力するアスリートのひたむきさには胸を打つものがあります。しかし、スポーツを見る側の人々が、この自己犠牲的な努力をアスリートに積極的に求めることは間違っています。
ましてや、見られる側に回りたくない子どもたちを、強制的にスポーツの舞台に立たせたうえ、あまつさえアスリートのような自己犠牲的な努力を求めることがあってはなりません。
忘れてはならないのは、ルールのもとで勝敗を競い合う活動としてのスポーツは、数ある⾝体活動のひとつにすぎないということです。
武術や太極拳についての私の研究が、⾝体を動かすことの楽しさや、⾝体を通して他者とつながる喜びを、より多くの⼈に知ってもらうことにつながれば嬉しいです。
記事担当者の感想
太極拳や武術というものをよく知らなかったので、スポーツとはこんなにも違う活動だということを知って驚きました。そして、この違いをもとにスポーツの問題点を浮かび上がらせるという倉島先⽣の視点は、とても新鮮に感じました。
また、スポーツ社会学という分野について、今まではぼんやりしたイメージした持っていなかったのですが、今回のインタビューで解像度がぐっと上がりました。
スポーツの未来を考えるうえで、スポーツ社会学は⽬が離せない分野ですね︕
▼本インタビューの元になった論文
『スポーツと暴力の二元論を超えて―太極拳推手交流会を事例に―』