薬学部設置計画(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

薬学部設置計画

 薬学部設置の構想は、「篠山新学部問題」として学院内に大きな議論を呼び起こしたが、波紋だけを残して消えていった計画である。

 兵庫県は1965年2月、多紀郡篠山町にあった県立兵庫農科大学が神戸大学に移管され移転するのに伴い、関西学院に対し、その校地約3万坪(約9万9,000㎡)、付属農場約6万坪(約19万8,000㎡)および校舎を、大学の学部を設置することを条件に譲渡したいとの非公式な打診を行った。
当時の関西学院は、新しい学部あるいは学科を設置するには大学設置基準に照らして校地面積が不足しており、厳しい状況にあった。
66年6月の理事会において、古武弥正学長を委員長に篠山問題研究委員会が設置され、農科大学跡にどのような学部を設置するのが適当であるかの検討が開始され、10月の理事会に、新学部を設置するとすれば薬学部が最適であるという報告書が提出された。
その理由として、将来の篠山地方開発の原動力となり、製薬会社の誘致などにより、篠山地域の繁栄に寄与できること、農場などを含めて農科大学跡を有効に活用できること、既設の理学部の応用的分野を含み、将来医学部設置にもつながり、関西学院大学を総合大学として完成する途上で適切な学部であることなどがあげられた。
また、専門学校理工科にあった製薬工業科の卒業生が社会で活躍し、貢献していること、製薬業界で重きをなしている学院出身者がいることなども考慮された。
この計画の推進には、学内の教育と研究体制の整備計画や新学部設置および完成までの財政計画を明らかにし、大学内の理解と協力を得ることが必要であることも報告書では強調された。

 この新学部設置と1966年6月に決定した父兄会費値上げとの関連を指摘した一部の学生は、両者に対する反対運動を起こした。
また、大学教員組合も、65年10月26日に理事長宛に「篠山問題に関する通告書」を提出し、財政の危機が叫ばれている時に、多額の資金を要する理工系学部を設置することの問題点を指摘し、計画の白紙撤回と既存学部の充実を訴えた。
学部教授会も反対を表明し、学内協力が得られにくい状況となった。
理事会は66年12月の臨時理事会において、建設と運営に財政的負担が大きく、学内協力を得ることが困難であるとの結論に達し、兵庫県の申し入れを辞退することを決定した。

 篠山新学部問題の混迷は、理系学部拡充による総合大学化を目指す理事会の意向と既存学部の整備充実を強く求める学内の要望との間で齟齬をきたしたことによるものであった。
この問題は、後に起こる大学紛争の遠因となった。

【参照】Ⅱ 258-264,339