関学タイムトンネル

[ 編集者:吉岡記念館       2011年6月8日 更新  ]

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1月 7日

1889(明治22)年のこの日、U. W. アトレーは、パルモア学院に昼間の学校を開校しました。

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夜間部しかなかったパルモア学院で昼間の授業を始めたのはアトレー【写真】です。1888年11月1日のことでした。しかし、昼間と言っても午後だけで、需要に応えるには十分ではありませんでした。そこで、年明けの1月7日から本格的に昼間の学校を始めることにしたのです。生徒10人で始まったクラスは、すぐに30人に増え、48人になりました。関西学院創立に伴い、アトレーは初代普通学部長に就任しました。

1月15日

1897(明治30)年のこの日、普通学部で英語を教えていた鈴木愿太は関西学院を辞職しました。

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上海留学中の鈴木【写真右端】は、1886年2月の初対面以来、週2度はJ. W. ランバスを訪ねるようになりました。仙台出身の鈴木の能力と人間性を見込んだランバスは、南メソヂスト監督教会日本伝道開始に当たり日本への同行を求めました。宣教師一行と共に神戸に到着した鈴木は、通訳から警察、県、市との交渉、使用人の雇入れ、必需品の買出し等、休む間もなく働きました。そして、同教会初の受洗者となってアメリカに留学しました。8年後、神戸に骨を埋める覚悟で帰国したのですが、わずか2年足らずで関西学院を辞職してしまいます。「W. R. ランバスが日本に居てくれたなら…」。後年、鈴木はその時の心境をこう語りました。

1月28日

1915(大正4)年のこの日、辞職を決めた小山東助文科長は、学生を前に1時間半におよぶ告別演説を行いました。

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小山【写真】が内ケ崎作三郎の紹介でC. J. L. ベーツ高等学部長と初めて会ったのは1913年6月下旬のことでした。数時間後、10年来の知人であるかのように打ち解けた二人は手を握り、小山の関西学院への赴任が決まりました。在任中、小山は文科のカリキュラム改革等、大いに力を発揮しましたが、幼い頃より抱いていた政治家になる夢を果たすため故郷気仙沼に帰ることになりました。「理想家であり、思想家であり、文学者でもあれば、哲学者でもある。よき説教者であり、Mysticな人であり、政治家としても宗教家としても当代稀に見る大人物であった」とその辞職は大いに惜しまれました。

2月 6日

1939(昭和14)年のこの日、H. F. ウッズウォース法文学部長が脳溢血のため急逝しました。

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5年前、静脈炎と血栓症のため宣教師館で寝たきりになったC. J. L. ベーツ院長は、ウッズウォース【写真】の手厚い看護を受け、快復しました。そんなベーツにとって、年下のウッズウォースが自分より先に天に召されるとは思いもよらぬことでした。翌日、5~60人が集まって自宅で告別式が行われ、9日には中央講堂で学院葬が営まれました。学院葬には、京都帝国大学の西田幾太郎教授をはじめ、約700名が参列しました。在職中に亡くなったウッズウォースは東京の青山霊園に眠っています。

2月11日

1915(大正4)年のこの日、高等学部商科会は『商光』創刊号を発行しました。

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「高等商業教育は実業界との連絡を待って完成する」との考えから、高等学部商科では学生会とは別に商科会が組織され、年に数回、実業家を招いて講演会が開催されました。会報として発行されたのが『商光』です。創刊号には「講演論説」として、C. J. L. ベーツ高等学部長による”OUR COLLEGE MOTTO, MASTERY FOR SERVICE”が掲載されました。また、商業実践の場として、教職員・学生により「関西学院消費組合」【写真】が組織され、学生が経営に当たりました。しかし、次第に学用品だけでなく教職員の家庭必需品まで取り扱うようになったため、学生だけでは行き届かなくなり、専任職員が担当することになりました。

2月28日

1917(大正6)年のこの日、不審火により中学部校舎が全焼しました。

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午前9時、1時間目の授業を終えた中学部生が礼拝のため移動を始めた時、3階の音楽室付属の物入から火が出ているのが見付かりました。急を聞いて駆けつけた教職員、学生生徒は、一致団結して重要書類や校具を運び出しました。音楽室から大型オルガンを一人で担ぎ出した中学部生竹村晋の奮闘や、延焼を食い止めるため水に濡らした柔道着を頭に巻きつけ本校舎と裏手付属舎間の廊下を破壊した猛者の話等、数々の武勇伝が伝えられています。関西学院は4年前に落成したばかりの校舎を失いました【写真】。

3月11日

1911(明治44)年のこの日、カナダ人宣教師D. R. マッケンジーが会計課長に選出されました。

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戦前の関西学院では、『理事会記録』も『会計帳簿』も英語で記入されていました。その美しく見事な筆跡からは、関西学院に関わった多くの人の苦労が偲ばれます。
D. R. マッケンジー【写真前列中央】は、イビー自給バンドの一員として1888年に来日しました。当初、金沢の第四高等学校で英語を教えましたが、これは、幼児の言語習得の早さにヒントを得て開発されたグアン教授法を日本で用いた最初であったと言われています。

3月22日

1894(明治27)年のこの日、原田の森の関西学院で本館の献堂式が執り行われました。

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関西学院創立の5年後、木造2階建ての立派な本館【写真右端が竣工前の本館】が完成しました。のちに3階が増築されるまで、2階の屋根の上は眺望の良い物見台になっていました。物見台には、アメリカ人宣教師C. M. ブラッドベリー(普通学部長)の発案により、脇浜村の高尾鉄工所鋳造の鐘が取り付けられました。授業の開始や終了を告げる美しい鐘の音は(新)生田川の辺りまで届いたそうです。

3月29日

1907(明治40)年のこの日、第17回卒業式が行われ、創立者W. R.ランバスが英語で演説しました。

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ランバス【写真】は関西学院創立の翌年に離日していますから、これは創立者が参列した唯一の卒業式でしょう。この時の講演内容は次のように伝えられています。「博士は先づ学院の創造当時より説き及ぼされこの関西学院の設立を見るに至りしは全く祈祷の力なり云々而して学院の現況及び将来を論及せらるゝ事約1時間半なりき」。講演通訳は松本益吉、卒業式司会は吉岡美国院長が務めました。従来6月に行われていた関西学院の卒業式が3月に行われるようになったのは、1897年からのことです。

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