関学タイムトンネル

[ 編集者:吉岡記念館       2011年6月8日 更新  ]

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7月 1日

1921(大正10)年のこの日、宗教部、弁論部に商学会を加えた総勢17名は地方文化宣伝旅行に出発しました。

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従来宗教部が単独で行っていた伝道旅行と弁論部による講演旅行が合体し、さらに商学会が加わって大規模な文化講演旅行が行われました。岸波常蔵教授以下5名の宗教部、河上丈太郎教授以下5名の弁論部、東晋太郎教授【写真】以下5名の商学会、それに特別参加のH. W.アウターブリッヂ教授とC. J. L. ベーツ院長の長男レヴァーからなる一行は、敦賀、福井、金沢、長野、松本、甲府を回って60回の講演を行い、12,000人の聴衆を集めました。

7月 9日

1947(昭和22)年のこの日、寿岳文章教授はカナダに住む恩師C. J. L. ベーツに手紙を書きました。

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戦後の混乱の中、関西学院は新しい教育制度への対応に追われていました。多忙を極める寿岳【写真】は、夏休みに入ってようやく恩師に手紙を書くことができました。手紙は「戦争中、お二人(ベーツ夫妻)のことを思わぬ日は一日としてありませんでした」と、格調高い英語で美しい和紙にタイプされています。寿岳は、関西学院を去るベーツから”Keep this holy fire burning.”の言葉を託された数少ない教え子の一人でした。

7月24日

1945(昭和20)年のこの日、鈴木吉満高等商業学校前校長は、川西航空機宝塚製作所で空襲に遭い亡くなりました。

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文部省の戦時非常措置による高等商業学校廃止の方針に対し、その存続運動の先頭に立った鈴木【写真】は、理事会による廃止決定に伴い、関西学院を退職しました。そして、教え子の徴用先に就職し、徴用学生の指導に当たったのです。空襲の際、逃げ遅れた学生を見つけた鈴木がその襟首を掴んで壕の中にけり込んだ瞬間、爆弾が炸裂しました。鈴木を「オトッチャン」と慕う教え子60人は、没後33年の追悼記念会を上ケ原のランバス記念礼拝堂で催しました。

8月 1日

1941(昭和16)年のこの日、C. J. L. ベーツ前院長は、カナダに帰国後初めての墓参の様子を日記に記しました。

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ベーツ家の墓はスミス・フォールズからほど近いウォルフォード墓地にあります(最寄の都市はオタワ)。日本での働きを終え帰国したベーツは、夏になって祖父母や両親の墓を訪れました。「いつの日か私はここに眠りたい。母の隣に、ハティ(妻)も一緒に。墓石には、名前の他に『日本への宣教師1902-1940』と刻んでもらおう」。1963年12月23日、トロントで亡くなったベーツは、その前年死去した妻の隣に眠っています【写真】。

8月19日

1920(大正9)年のこの日、大阪朝日新聞主催全国中等学校野球大会決勝戦で、関西学院中学部は慶應義塾普通部を17対0で破り、優勝しました。

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予選で4連投し、14日から始まった鳴尾大会1回戦を完封したエースで4番の主将沢昇は、2回戦前夜40度の熱を出しました。実は、春先から肋膜の気があったのを押して猛練習を重ねていたのです。それでも6回からマウンドに立つと、準決勝、決勝と投げ抜き、原田の森に深紅の優勝旗を持ち帰りました【写真】。翌年、高等商業学部に進んだ沢は、春の2試合に投げた後、咽頭結核と診断され故郷台湾に帰りました。沢が亡くなったのは1922年1月22日のことでした。

8月31日

1888(明治21)年のこの日、W. R. ランバスは、南メソヂスト監督教会第2回日本宣教部会で、神戸に青年のための学校を開設することを提案しました。

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アメリカからA. W. ウィルソン監督を迎え、J. W. ランバスの家で日本宣教部会が開催されました【写真はJ. W. ランバスによる会議録(複写)】。J. C. C. ニュートンの祈祷により午後2時から始まった初日の会議の最後に、W. R. ランバスは青年のための学校を神戸に開設することを提案しました。この提案は9月3日に審議され、神戸に男子校、広島に女子校を設立することになりました。こうして、翌年原田の森に誕生した男子校が関西学院です。

9月15日

1919(大正8)年のこの日、チェコスロバキア軍オーケストラと合唱隊による音楽会が関西学院で開催されました。

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シベリアを転戦していたチェコ軍が船の修理のため神戸に滞在した時、高等学部商科の学生で英語の堪能なグリークラブ員塩路義孝は、兵庫県外事課長から頼まれ、チェコ軍宿舎を訪ねました。こうして始まったチェコ軍との交流【写真】により、グリークラブは今も演奏会に欠かせない名曲「U Boj」の譜面を手に入れたのです。しかし、これはチェコの歌ではありませんでした。そのルーツ探しはグリークラブ関係者によって続けられました。「U Boj」がクロアチアの作曲家によるものであることが判明したのは、1975年11月25日のことでした。

9月16日

1912(明治45)年のこの日、カナダ・メソヂスト教会宣教師H. W. アウターブリッヂが関西学院に赴任しました。

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マウント・アリソン大学時代、ラグビーの選手だったアウターブリッヂ【写真】は、早速学生を集めてラグビーの基本を教えました。しかし、試合をするまでには到らず、いつしか練習も行われなくなりました。
事務処理が早いことから「アワテブリッヂ」と呼ばれたアウターブリッヂは、戦後いち早く関西学院に戻って学長に就任、神学部再興に尽力し、さらに第7代院長を務めました。書を嗜み、達者な日本語で「外橋(アウターブリッヂ)英一(H)」と名乗りました。

9月28日

1889(明治22)年のこの日、兵庫県知事より関西学院の設立が認可されました。

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「私立関西学院設立御願」は、9月6日に設立者中村平三郎【写真前列中央】から都賀野村役場を経て兵庫県に提出されました。私立学校の校主は日本人でなければならなかったのです。アメリカ人宣教師が経営する関西学院において、日本人校(院)主中村の存在なくしてその創立も運営もあり得ませんでした。中村は普通学部教師として英語と数学を担当しましたが、1893年に退職し、元町でネル屋中村商店を始めました。関西学院にとって、創立者W. R. ランバスと共に忘れてはならない、もう一人の大恩人と言えるでしょう。

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