『学院探訪』

[ 編集者:吉岡記念館       2019年11月1日 更新  ]

二足の草鞋

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1920年5月、関西学院高等学部の英語教師イアン・オゾリンは日本におけるラトビア外交代表としての職務を開始しました。それは、シベリア・極東地域ラトビア政府代表官吏マズポリスの要請を受けてのことでした。祖国の独立宣言から1年半が経過したその頃、日本駐在の各国領事館はラトビア人へのビザ発給をどう取り扱っていたでしょうか。オゾリンの報告によると、ロシアはウラジオストックへの旅行ビザ発給を拒んでいました。アメリカはラトビアの独立を未だ認めておらず、ビザ発給を断固拒否、イギリスとフランスはビザ申請者にまずロンドンやパリと連絡を取るよう求めました。イタリアはラトビア人へのビザを問題なく発給していました。

教師と新興国の領事という二足の草鞋を履いたオゾリンから著書『琥珀の國』の翻訳を頼まれ、神戸の舞子で1年近く同居生活を送った教え子曽根保は、この恩師のことを「16ヶ国語が話せる語学の天才」と語っています。曽根は、舞子駅から灘駅までの通学定期を買い与えられ、授業でブラウニングの詩を、車中ではドイツ語を教わりました。後年、英文学者になった曽根はブラウニング研究の第一人者と言われました。

1921年7月、出版を果たしたオゾリンはラトビアに帰国します。その辞職を惜しんだ関西学院は「学生に与へられたる紳士的感化と学術上の知識とは多大の感謝に値する」として謝礼を贈り、祖国の発展を祈りました。

2011年10月20日、関西学院を訪れたラトビア共和国初代駐日大使ペーテリス・ヴァイヴァルス氏は国樹オークの苗木を井上琢智学長に贈呈しました。それは、90年前のオゾリン(ラトビア語で「オーク」の意)が取り持つ深い絆の証しでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 272, 2012.10)

敗戦間近の卒業式-失われた卒業証書-

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太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月、関西学院中学部は「教育に関する戦時非常措置方策」により、4年生と5年生を同時に卒業させました。しかし、両者を1945年卒業生と一括りにするのは適切ではありません。前年6月12日から3年生以上の通年(勤労)動員が始まり、十分な授業が行われていなかったとは言え、5年生は曲がりなりにも規定の在学期間を満了していましたが、4年生が授業を受けたのは約3年で、1年の動員後、5年生になることなく卒業させられたからです。また、1941年入学生から服装が全国的に国防色の折り襟服、戦闘帽、脚絆に統一されたため、憧れの黒い制服、金色の三日月が光る関西学院独特の黒い丸帽、白脚絆を身に付けることもできませんでした。創立以来、関西学院の教育を支えて来た宣教師も入学前には全員帰国していました。

異例の卒業式は3月27日に行われました。その2週間前、13日夜半から翌未明にかけての大阪大空襲で50万人が罹災、17日未明には低空から神戸が空襲を受け、準備していた卒業証書が灰になりました。式で渡されたのはB5版毛筆書きの仮卒業証書で、後日中学部事務室で大判の卒業証書と交換されたそうです。しかし、敗戦間近、連日連夜の空襲と戦後にかけての混乱の中、卒業証書を手にすることができた人はどの程度いたでしょうか。卒業式が行われたという記憶がない、卒業式の案内などもらわなかったとの声をこの年の卒業生からお聞きしています。

進学しなかった卒業生は、新年度になっても実務科生として学校の管理下に置かれ、学徒動員が続きました。8月15日の玉音放送を経て、21日に動員解除となり、実務科も解散したと思われますが、その実態は未だつかめぬままです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 271, 2012.8)

学生会のはじまり

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宗教部、学芸部、運動部、音楽社交会の4部からなる学生会が関西学院に誕生したのは、高等学部開設から間もない1912年6月29日のことでした。その影には、学生に責任を持たせ、自治実践の場を作りたいというC. J. L. ベーツ高等学部長の強い思いがありました。そんなのは成功しない、日本の学校には馴染まないとの反対意見に対し、責任感を自覚させる最善の方法は、学生を信頼し、責任を与えることだとベーツは主張し、譲りませんでした。

原田の森時代(創立から1929年3月まで)の学生会の取り組みを『関西学院学生会抄史』(1937)から抜き出してみると、学生会館の建設、淀川大洪水慰問活動、学生会基金制度の確立、関東大震災救済活動、高野山大学との交換講演会、文化講演旅行、模擬帝国議会開催、移民法反対運動等、実に活発多彩です。赴任間もない東京帝国大学出身の松澤兼人教授(戦後、衆参両院議員)は、関東大震災の余震おさまらぬ東京に乗り込む、恐ろしく活動的な学生の姿を目の当たりにし「官立の学校ではかうはいかないだらう」と驚きの声を挙げました。

学生会役員になるための選挙運動も凄まじかったようです。「政権発表演説会や立合演説、さてはポスター貼りからビラまきに至るまで、国会議員選挙を一寸小さくした丈で、戸別訪問は勿論、ひよつとすれば、コーヒー一杯で買収なども行はれてゐたかも知れない。…こんな風であるから、関西学院の学生は学校を出てその日からでも一人前の人間として、縦横無尽な働きが出来るのである」。他校に例のない、完全なる自治機関と言われた関西学院学生会が果たした役割の大きさを松澤はこう紹介しています。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 270, 2012.6)

“Mastery for Service”のルーツ

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関西学院のスクールモットー“Mastery for Service”がカナダのマギル大学マクドナルド・カレッジと同じであることを知ったのは、1999年秋に同大学アーカイブズを訪問した時でした。カレッジ(農学部、家政学部、教育学部)のモットーは、1906年の開設時に出資者ウィリアム・マクドナルド卿が提案したと言われています。一方、マギル大学出身のC. J. L. ベーツが関西学院で新たに創設された高等学部(商科・文科)のためにこのモットーを提案したのは1912年のこととされています。両校のモットーの一致は偶然でしょうか? それとも、この言葉はベーツがカナダから持ち込んだものなのでしょうか?

カナダ側の状況を明らかにする書簡が Macdonald College Annual (1934年) に掲載されています。それによると、“Mastery for Service”の生みの親はトーマス・D・ジョーンズで、この言葉をマクドナルドに伝えたのはJ. W. ロバートソン(カレッジ長)でした。ジョーンズがカレッジ近くのメソヂスト教会で行った一連の説教”Service” “Equipment for Service” “Efficiency for Service”に関心を持ったロバートソンが、マクドナルドと検討中だったカレッジのモットーのことでジョーンズに相談したのです。この他に考えられるテーマはないかとの質問にジョーンズが答えたのが“Mastery for Service”でした。

「ベーツ先生はマクドナルド・カレッジのモットーをマネされたのです」。ベーツの片腕とも言えるH. F. ウッズウォースの次男ディヴィッドさんからお聞きしたこの言葉が事実なら、これらの人物とベーツの関係、あるいはカナダに休暇帰国中のベーツの足取りを追うことにより、両校のモットーの関係を示唆する新たな発見があるかも知れません。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 269, 2012.4)

首相の紹介状

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1889年の創立以来、教員組織、カリキュラム、校舎・設備等の整備を続けてきた関西学院普通学部は、1915年に改称し、中学部となりました。中学校令に基づく教育機関として認められたのです。その影には、卒業生永井柳太郎の働きがありました。

文部省に提出した名称変更申請に対する回答が得られず、関係者が気を揉んでいた時のことです。C. J. L. ベーツ高等学部長の上京を促す電報が東京の永井から届きました。ベーツを待っていたのは首相の大隈重信でした。永井は、関西学院卒業後進学した早稲田大学で大隈の知遇を得ていたのです。早稲田大学近くの大隈御殿を訪ねたベーツは、雄弁な大隈の話を一方的に聞かされるばかりで、口を挟むことができませんでした。息継ぎのわずかな隙をついて話を遮った永井が来訪の目的を告げました。ベーツはやっとの思いで文部大臣への取次ぎを依頼することができたのです。大隈は承諾し、紹介状を書くよう息子に命じました。書類ができると、大隈は自身で封印しました。その日の内に文部省を訪れたベーツは文部大臣に紹介状を提出しました。関西学院が普通学部(普通科)から中学部への名称変更を認められたのはその数日後のことでした。

大隈が紹介状を書いたのは異例のことだったのかも知れません。と言うのは、ベーツがこう書いているからです。「大隈公は、書類に自分の名を記したり、あとに残るものを書いたりは決してしないと聞かされていました。火鉢のそばに座ると、火箸で灰に書き、すぐに消してしまうので、写しをとることもできないのです。彼は平等論者のように語るけれど、その暮らしぶりは貴族的だと言われていました。しかし、早稲田大学創立により、彼が日本の近代幕開け期の自由教育に大きな役割を果たしたことは疑う余地がありません」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 268, 2012.2)

クリスマスキャロル

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クリスマスの季節になると、関西学院グリークラブによるクリスマスキャロルを楽しみにされる方も多いことでしょう。かつては、宣教師館周辺もグリークラブのキャロリング先のひとつでした。訪問を受けた宣教師とその家族は、学生たちの心遣いに感謝し、日本を去った後もその美しい歌声を忘れることはありませんでした。

長年文学部長を務めたカナダ人宣教師H. F. ウッズウォースの次男ディヴィッドさんは、グリークラブのお気に入りは「もろびとこぞりて」”Joy to the World”だったと教えてくださいました。”the world”の発音に難があったことまで懐かしんでおられました。また、父親がクリスマスに必ず歌うのは「ウェンセスラスはよい王様」”Good King Wenceslas”だったそうです。

戦前の中学部で教えていたM. M. ホワイティングの長女フローレンスさんは、クリスマス・イブの想い出をこう記しています。「宣教師館が10軒並んでいました。私たちの家は6番です。最初は、遠くでかすかに聞こえるだけでした。歌声が段々大きくなってきました。とうとう、我が家に来ました。ちょうど私の部屋の窓の外に! 部屋は2階だったので、学生さんがよく見えました。夜おそかったけれど、私はベッドから飛び出し、窓に駆け寄りました。『メリークリスマス! ホワイティング先生のお嬢ちゃん』。グリークラブのお兄さんはそう言って私に手を振り、歌い始めました」。フローレンスさんも学生たちの英語の発音が不正確だったことを指摘しています。しかし、そのハーモニーの美しさはこの世のものとは思えませんでした。ベッドに戻った小さな女の子は、寒空に最後の音が吸い込まれるまで、身じろぎもせず耳を傾けたのでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 267, 2011.12)

天皇機関説事件と中島重教授

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戦後、日本で接収された文部省思想局の秘密文書「各大学における憲法学説調査に関する文書」が米国議会図書館に保管されていたとの記事が、2006年12月20日付け『神戸新聞』に掲載されました。この秘密文書は、1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、19名の憲法学者を機関説支持の度合いに応じ3段階に分類したものです。最も危険視された「速急の処置が必要な者」8名の中に、同志社大の田畑忍、東大の宮沢俊義等と共に関西学院大中島重の名がありました。

この文書は国家権力による追求の厳しさを伝えています。「自分は機関説論者。学説に殉じるのは本懐だ」。4月上旬、検事の問い合わせにそう答えた中島は、一月後、言葉を変えました。「改説ではないが、自省して機関説を説かないことにした」。
そんな中島のことを後年、ある教え子はこう書いています。「『あんなヒトラーのナチズムはやがて歴史の審判の前に崩壊するであろう』とあの病身で痩躯な教授のキッと構えた眼光を今でもありありと想い出す」。さらに、西宮警察の特高が中島の授業の受講生のノートを手に入れようと働きかけていたとの噂もあったそうです。

中島と関西学院に対する追及の手は緩みませんでした。10月12日、文部省に呼び出されたC. J. L. ベーツ院長兼学長は、翌日の日記にその模様を記しました。「中島教授および憲法の授業について、赤間〔信義〕氏と十分話し合った。〔天皇〕機関説を教えないだけではもはや不十分、憲法の教師は『主権の主体は天皇である』ことを教えねばならないと同氏は言う」。天皇機関説を排除する第2次国体明徴声明が発表されたのは、その3日後のことでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 266, 2011.10)

忘れられた墓標

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「可愛い赤ちゃんの悲報を受け、今朝から胸のつぶれる思いです。…絶望の淵に沈んでおられることとお察しします。お二人の悲しみの深さは、私どもの想像の及ぶところではないでしょう。それでも、祈りの中で少しでもお力になりたいと、毎日、そして日に何度もあなた方のために祈って参りました」。これは、1888年9月17日に書かれたW. R. ランバスからJ. C. C. ニュートン夫妻宛ての手紙です。ニュートンは、来日から4ヶ月も経たない内に、1年前に生まれたばかりの娘アニー・グレイスを亡くしたのでした。

のちに関西学院初代神学部長、第3代院長を務めるニュートンが娘ルースとアニーを連れ、妻レティと共に横浜に到着したのは1888年5月21日のことでした。アメリカの南メソヂスト監督教会が経営に加わった東京のフィランデル・スミス一致神学校に派遣されたのです。2ケ月後、神戸を訪れたニュートンは、留守を預かる妻にこう書きました。「ランバス父子ほど熱心な人を私は見たことがありません。彼らは昼も夜も休みなく働いています」。

アニーは東京の青山霊園に埋葬されました。35年後、ニュートン夫妻は日本での働きを終え、帰国します。1928年にレティが、31年にニュートンがアトランタで亡くなりました。ニュートンの愛児が日本に眠っていることを記憶する人もいなくなりました。

アニーの死から百年が経ちました。墓地を調べていた青山学院のジャン・クランメルが管理者不明の墓に気付き、関西学院に連絡してきました。関西学院は墓を修復しました。しかし、情報の確認が不十分だったようです。アニーの没年が1889年と墓石に刻まれてしまいました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 265, 2011. 8)

父と娘

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妻が病に倒れて以来、C. J. L. ベーツ第4代院長は、4人の子どもの中で唯一の娘であるルルを心の拠りどころとすることが多くなったようです。そんなベーツが、カナダで暮らす娘に好きな男性ができたのを知ったのは、1937年3月19日のことでした。恋の相手はエマニュエル・カレッジで学ぶ33歳のフランス系スイス人クロード・デメストラル。娘の気持ちを手紙で知ったベーツは、翌日の日記に複雑な胸中を記しています。「もし、クロード・デメストラルという吟遊詩人(きっとそんな格好をしているに違いない)のような名前の男がルルの愛を勝ち得たなら、彼はこの世で最高の宝を手に入れたことになる。彼はそれに値する立派な男でなければならない」。

その月の終わりには、娘の恋人から結婚の許しを求める手紙が届きました。それは大変立派な内容で、彼が申し分のない男性であることをベーツも認めざるを得ませんでした。

6月18日、トロントからの電報により、ベーツは2人が29日に挙式することを知りました。娘の花嫁姿を見ることも叶わず、父親としての感情を日記に吐露するしかありませんでした。「31年半前、赤ん坊だったルルを病院〔から〕抱いて帰って以来、こんなにも深く愛し、慈しんできた大切な娘が私たちのもとを去り、たった半年前に知り合ったばかりの男とともに行ってしまう。しかも、その男の姓を名乗り、その男の家を守り、その男の家庭を築き、その男の子どもを抱くのだ」。

4年後、ルルは男の子を出産しました。ベーツにとって3人目の孫でした。アルマンと名付けられたこの孫が2001年に関西学院大学から名誉博士号を授与された時、長身の孫には祖父愛用のガウンがよく似合いました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 264, 2011. 6)

アイゼンブルグ少年のレプタ

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ブランチ・メモリアル・チャペル(現・神戸文学館)は、原田の森時代の関西学院を象徴する建物として知られています。チャペルには、建築資金の大部分を提供したヴァージニア州リッチモンドの銀行家ジョン・ブランチの名が付けられました。関西学院創立に当たり、大きな助けとなったのは、同氏の父トーマスの遺産でした。独立したチャペルが必要になった時、普通学部長S. H. ウェンライトは、創立者W. R. ランバスと共に息子のジョンを訪ね、協力を求めたのです。

チャペルの献堂式は1904年10月24日に行われました。建築資金について、ウェンライトはこう述べました。「日本を訪れたこともない、またこれからも訪れることのないアメリカの友人が、チャペルの完成に手を差し伸べてくれました」。その陰にはある少年の話が伝えられています。

チャペル建築のための寄付をウェンライトがミズーリ州モンティセロの教会で求めた時のことでした。会衆から何の反応も得られない中、8~9歳の少年が立ち上がり、夕刊を売って得た小遣いから50セントを差し出しました。少年の名はヘンリー・アイゼンブルグ。ヘンリーにとって50セントは大金でした。この行動に感動した会衆から多額の献金が寄せられました。その後、ヘンリーは大学に進学し、銀行に就職しましたが、ミシシッピ川で汽船事故に遭い、命を落としました。他の乗客を助けた後、自らは老朽化した船と運命を共にしたと伝えられています。

1957年2月、ミズーリ州の大学に留学していた高等部教諭西尾康三がこの少年の父親を探しあてました。ニューロンドンに健在だった父親は、息子が関西学院のために小遣いを捧げた教会や通った小学校、そして、無残にも若い命を奪ったミシシッピ川を案内してくれたそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 262, 2011. 2)

30年来の旧友-ベーツとマシュース-

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1908年夏、軽井沢にいたカナダ・メソヂスト教会宣教師C. J. L. ベーツは、アメリカの南メソヂスト監督教会宣教師W. K. マシュースの訪問を受けました。マシュースが働く関西学院の経営にカナダのメソヂスト教会が加わる可能性についての話し合いに呼ばれたのです。ベーツが関西学院の話を聞いたのはその時が初めてでした。しかし、当時のカナダ側は中学校再興を考えており、青山学院神学部と協力体制にありました。

ベーツとほぼ同時期の1902年に来日した6歳年長のマシュースは、山口で2年働いた後、関西学院に赴任し、1908年春から図書館長を務めていました。関西学院にデューイ十進分類法を導入した図書館長として知られています。当時の日本でこの分類法を採用していたのは、山口市の公立図書館だけだったと、後年マシュースは書いています。

結局、カナダのメソヂスト教会は関西学院の経営に参加することになりました。今から百年前の1910年9月、ベーツ夫妻が2人の子どもを連れ、原田の森に赴任して来た時、休暇帰国中のマシュースに代わってT. H. ヘーデン夫妻が一家を温かく迎え入れました。

時は流れ、第4代院長を務めたベーツが関西学院を辞め、帰国する日がやって来ました。1940年12月のことです。前年3月に行われた卒業式でのスピーチに端を発した院長辞任にまつわる一連の騒動は、ベーツの心を深く傷つけました。神戸港出航を翌日に控えた最後の夜、妻との食事を終えたベーツをマシュース夫妻が訪ねました。ベーツにとってマシュースは「30年来の大切な旧友」でした。2人は、32年前の夏の日を想い、暖炉の前でしみじみ語り合ったことでしょう。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 261, 2010.12)

“Launch out into the deep.”(ルカ伝5章4節)

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1932年、大学の設立認可を受けたC. J. L. ベーツ第4代院長(初代学長を兼任)は「関西学院大学のミッション」を発表しました。その要旨を紹介しましょう。

まず、関西学院は二つの意味でミッション・スクールであると指摘しました。一つは伝道局(ミッション)が創立した学校という意味、もう一つは使命(ミッション)を持った学校であるということです。ですから、関西学院大学は単なる学びの場ではなく、もっとも深い意味で“education”の源でならなければならないと考えました。

ここで、“education”を「教育」と訳さなかったのは、ベーツがこの言葉をラテン語の語源から説明しているからです。ラテン語の”e(x)”は「~から」、“duco”は「導く」という意味です。したがって、学生が生まれながらに持っている才能を引き出すことが”education”なのです。これは、日本語の「教育」とは語源上の意味が異なります。では、それは何のためでしょうか。単に効率を追い求めるのではなく、学生が自分の考えを持ち、自身の言葉で語ることができるようにするためです。学生の持つ素質の中から進取の精神と自信と自制心を育てるためです。

その上で、具体的にこう述べました。「我々のミッションは人間をつくることです。純粋な心の人間、芯の強い人間、鋭い洞察力を持つ人間、真理と義務に忠実な人間、嘘偽りのない誠意と揺るぎない信念を持った人間、寛大な人間です」。この中でベーツが最も強調したのは「寛大さ」(magnanimity)でした。これこそ、魂のもっとも崇高な姿だと考えたのです。

“Launch out into the deep.”(沖に漕ぎ出そう)。関西学院が発展に向け新たな一歩を踏み出した時、ミッションを示したベーツは全構成員に呼びかけました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 260, 2010.10)

夏休み前の午餐会

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関西学院が1912年に開設した高等学部(文科・商科)の船出は困難を極めました。両科併せて100名の新入生を募集したのに、集まった志願者はたったの50名。結局、口頭試問のみを実施し、39名(文科3名・商科36名)の入学を許可しました。専用の校舎もなく、教授陣も図書も不十分な中、初代高等学部長C. J. L. ベーツは”Be patient.”と学生に諭し、”Be ambitious.” ”You must have a vision.”と学生を励ましました。そして「私は天から示されたことに背かず」(使徒言行録26章19節)、「幻がなければ民は堕落する」(箴言29章18節)などの言葉を引用し、リーダーシップを発揮しました。

しかし、最初の夏休みを迎える頃には学生たちの不平不満は高まり、こんな状況ではとても勉強できないと、試験の延期を迫りました。進路変更を真剣に考える者も出てきました。そんな中、午餐会の招待状がベーツから全教職員、全学生に届けられたのです。

午餐会は7月6日正午に神学館の一室で行われました。それは、非常に打ち解けた和気藹々とした集まりであったと伝えられています。学院史編纂室には、当日の英文献立表(スープ、スズキのホワイトソース、仔牛のパイ、チキンのフリカッセ、カレーライス、アイスクリーム、果物、コーヒー)が残されています。

転校を考えていたある学生は、これを機に心を変え、ベーツに手紙を送りました。「この温かみこそ他の如何なる学校に於ても到底味ふ事の出来ぬものである事を感じ遂に学院に留まる事に決定致しました」。この一件は「グッドディナー物語」として、後世まで語り継がれました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 259, 2010. 8)

関西学院とカナダ

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アメリカの南メソヂスト監督教会が1889年に創立した関西学院の経営に、カナダのメソヂスト教会が加わったのは今からちょうど100年前の1910年でした。日本のオタワへの公使館設置が1928年、カナダの東京への設置が翌29年であることを考えると、関西学院とカナダの間には、国同士の外交関係以上に長い歴史があると言えるでしょう。

初代駐日公使ハーバート・マーラーは、9月の赴任後、早くも11月末には関西学院を訪れています。『関西学院新聞』によると、C. J. L. ベーツ院長の紹介により、中央講堂で「国際的大講演会」が行われました。実は、戦後の話になりますが、ベーツ自身もカナダ政府から駐日大使の打診を受けていたことを、教え子であり、初代高等部長を務めた河辺満甕が明かしています。河辺によれば、ベーツの態度の特徴は「寛大、人格尊重、調和、協力」だったそうです。

両国間には不幸な時代もありました。カナダのドイツへの宣戦布告は1939年9月10日でしたが、参戦を決めた下院議会において、唯一人立ち上がり、いかなる戦争も悪であるとの信念を感動的な言葉で訴えた議員がいました。関西学院文学部長を務めたH. F. ウッズウォースの兄です。

また、長らく関西学院の理事を務めたダニエル・ノルマンの長男ハワード、次男ハーバート兄弟の存在も忘れることはできません。兄は宣教師となって関西学院大学神学部で教えました。外交官になった弟は共産主義者との疑いをかけられ、1957年にエジプトのカイロで痛ましい最期を遂げました。その時、関西学院には新聞記者が詰めかけたと伝えられています。

1961年には、国賓として来日中のディーフェンベーカー首相が関西学院を訪問しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 258, 2010. 6)

生みの親より育ての親

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初代神学部長を務めたJ. C. C. ニュートンは、創立者W. R. ランバスが1890年末に関西学院を去った後も学校に残り、創立者の精神を伝え、学校の基礎を築き、第3代院長に就任しました。その教えを受けた学生は「生みの親より育ての親」という諺でニュートンを称えました。学生に「ジェントルマン」と声をかけたC. J. L. ベーツ第4代院長に対し、ニュートン院長は、温かく「ブラザー」と呼びかけていました。そんなニュートンにまつわるエピソードを紹介しましょう。

元町から関西学院のある上筒井に向かう市電の中でのことです。ある学生が高齢の女性に席を譲りました。すると、偶然同じ電車に乗り合わせていたニュートンが女性の前に進み出て、たどたどしい日本語で説明を始めたのです。「この学生は関西学院の学生です」。恥ずかしさのあまり、その場を立ち去ろうとする学生の手をニュートンはぎゅっと握り締めました。恩師の柔らかな手の温もりは学生の胸に深く刻まれました。

代返ばかりで実際の出席者が1/3しかいなくても、「オール・プレゼント」と言って喜んだニュートン。”God”と答案にたくさん書いたら点が高くなるという伝説を残したニュートン。どんなに悪戯しても、ますます親切にしてくれたニュートン。チャペルをサボっても叱ることのなかったニュートン。高齢の院長に対する不満を直訴に来た学生会の役員に対し、「適任者が確定するまで、どうか学生会が一致してこの私を助けてください」と言って共に祈ったニュートン。自分と他人の傘の区別がつかなかったニュートン。ニュートンの前では、悪戯盛りの普通学部生ですら、自らの行為を反省し、神妙にならざるを得ませんでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 257, 2010. 4)

墓地で見つけた十字架

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今から4年前のことです。修法ヶ原に眠るJ. W. ランバス(関西学院創立者の父、M. I. ランバスの夫)のお墓を訪れた時、墓石の上に小さな銀色の十字架が置かれていることに気付きました。それは、2004年夏、ランバス家の故郷ミシシッピー州を仕事で訪問した時、J. W. ランバスの弟(故郷で巡回牧師となって献金を集め、兄の中国伝道を支えました)の子孫ジョン・ルイスさんからいただいたのと同じものでした。十字架をくださった時、ジョンさんは私にこうおっしゃいました。「小さいからどこでも持ち歩けるし、誰にも気付かれないよ」。腹が立った時、悲しい時、ジョンさんはポケットにそっと手を入れ、十字架を触るのだそうです。

その十字架が何故ここに? 来日されたジョンさんは、お墓参りの時、いつも持ち歩いている十字架を埋めてきたと言っておられました。それが、1年以上経った今、目の前にあるのです。まるで、私が来るのを待っていたかのように。 墓地をご案内くださった谷口良平さんに驚きを告げると、「十字架を置いたのは私です」とおっしゃいました。墓碑銘調査のため毎週末墓地に通っておられた谷口さんは、ある日、ランバスの墓石のそばに小さな十字架が落ちていることに気付かれたそうです。以来、十字架を見つけては墓石の上に置き直すことを続けて来られたのです。

この話を知った神戸市立外国人墓地事務所の方は、十字架を埋め戻してくださいました。そして、「相当深く掘ったから、雨が降っても風が吹いても、もう大丈夫ですよ」と私にお電話くださいました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 256, 2010. 2)

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