『学院探訪』

[ 編集者:吉岡記念館       2017年7月10日 更新  ]

※ このサイトは 学院史編纂室 の協力を得て広報誌 『K.G.TODAY』 に掲載された記事を、WEB上に転載したものです。

"Esprit de Kwansei Gakuin"

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松山から来た転校生

関西学院に野球チームができると、S. H. ウェンライト普通学部長は用具を提供し、グラウンドに出て自らノックしました。試合の応援にも駆けつけましたが、それは相手チームとの喧嘩が絶えなかったからです。判定を巡って議論することが多かったため、野球選手は「弁舌の徒」であることが求められました。

1897年9月、畑歓三が愛媛県尋常中学校から転校してきました。畑の同校入学は、夏目漱石の赴任と同じ年でした。ですから、小説『坊つちゃん』に描かれた出来事の多くは、畑にとって周知の事実だったそうです。松山時代から野球をしていた畑は、神戸で初めてカーブを投げた投手として知られています。それは、1898年に行われた乾行(けんこう)義塾(現・聖ミカエル国際学校)戦でのことでした。のちに第5代院長を務めた神崎驥一はこう語っています。「相手はこの畑投手の球(カーブ)が打てない。どうしたわけなのだろう、緩い球だから打てないのだろう、バットの振りを遅くして打てと義塾選手はいろいろ検討したものだ。ところがネット裏?からみていた義塾選手があの球は曲がるぞ、皆んな気をつけろ…と始めてカーブに気が付いたという思い出がある」。

勉学の面では、畑は数学に強い関心を持っていました。しかし、関西学院の教授法が前校の「山嵐」とは全く異なっていたため、興味を失くしてしまいました。代わりに、何をするためこの世に生を受けたのか、真剣に考えるようになりました。後年、関西学院の教師となった畑は、技量では劣らないのに神戸高商に勝つことができない庭球部のために、”Noble Stubbornness”(品位ある不屈の精神)という言葉を考案しました。現在、これは体育会全体の標語になっています。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 296, 2017.7)

誕生日に書いた辞表

2017年5月26日はC. J. L.ベーツ第4代院長の140回目の誕生日です。ベーツが生まれたのはカナダのオンタリオ州にあるロリニャルという小さな村でした。

1940年の誕生日、63歳になったベーツは辞表を書きました。それが関西学院で迎える最後の誕生日となりました。前日の日記にはこう記されています。「神よ、学校の霊的生活を傷つけることなく、この細心の注意を要する状況をくぐり抜けて行くことができるようお導きください。しかるべき時にしかるべき行いを仕損じることのないよう、日々、刻々となすべきことをお示しください」。ベーツが辞任を決意するに至った出来事の発端は、前年3月の卒業式でした。院長の言葉をめぐって騒動が起こり、日本人が院長を務めるべきと考える日本人理事の存在が明らかになったのです。日記には数カ月にわたりベーツの苦悩が綴られています。

6月17日、辞意を受けた理事会は常務委員会を秘密裏に開き、当時の国内情勢、国際情勢の下では辞任を承認するのが賢明との結論に至りました。その決定をアメリカ人宣教師W. K. マシュースから聞かされたベーツは、「20年間、この職で働けたのは大変名誉なことだった。きっぱり辞める時が来たのだ。1942年まで続けたいと思っていたが、今が辞める時だ。罪をかぶる人間が必要なら、ヒトラーのせいにすることができる」と書きました。

12月30日、別れの日がやってきました。宣教師館にベーツ夫妻を迎えに来た車は、そのまま神戸港には向かわず、正門から構内に入り、中央芝生を一周しました。車が各建物の前を徐行する度に教職員と学生が飛び出して来て、別れを惜しんだと伝えられています。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 295, 2017.4)

クレセントの予兆

第4代院長を務めたC. J. L.ベーツは、1894年から3年間、モントリオールのマギル大学で学びました。当時、モントリオールはカナダ経済の中心で、セントローレンス川には世界中の船が集まって来ました。若き日のベーツは、この大都会のどの辺りに住んでいたのでしょうか。

ベーツが学生時代に使ったと思われる本が学院史編纂室に残っています。その中に住所が記されているものがありました。”C. J. L. Bates / Sept. 22, 1894 / 1st year Arts / 21 Lorne Crescent / Montreal” (Ancient History for Colleges and High Schools). ベーツは、大学の北側にあるローン・クレセント(三日月型の通り)21番地に住んでいたのです。住所に”Crescent”の文字を見つけた時、その後の関西学院(三日月が校章)との深い縁の予兆のように感じられました。

この情報をもとに、モントリオール在住のご令孫チャールズ・デメストラルさんがケベック州立図書館・文書館アーキビストの協力を得て調査されました。その結果、1890年から1909年当時この通りの地番は21番まであり、1894年に21番地を所有していたのはドーラン氏であったことがわかりました。さらに、現地に足を運び、写真を撮影し、送ってくださいました。ローン・クレセントに面しているのは建物側面の小さな扉です。大学生のベーツはここから出入りしていたのでしょう。扉上部の半円部分にはステンドグラスが填められていたと思われます。

関西学院辞職後、カナダに帰国してからトロントに求めた小さな家をベーツは「クレセント・コテージ」と呼びました。それは、関西学院を懐かしんでのことだったに違いありません。庭には、日本政府からカナダに贈られた桜の木が植えられていたそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 294, 2017. 2)

原田の森に「あさが来た」

高視聴率を記録したNHK連続テレビ小説「あさが来た」(2015年度下半期放送)は、幕末から大正にかけて活躍した女性起業家広岡浅子の生涯を描いたものでした。1911年12月25日に大阪教会で同志社出身の宮川経輝牧師から受洗した浅子は、原田の森時代の関西学院を訪れています。

1912年に開設された高等学部商科の学生は、商業教育の実際化を計り、学生相互の親睦を深めるため、商科会を創設しました(1922年より商学会と改称)。その第一回例会は翌年2月23日に行われ、神戸青年会初代理事長村松吉太郎が講演しました。商科会による講演会はその後も続き、1915年11月には、広岡浅子が招かれ、「所感」というタイトルで話をしました。講演内容に関する記録は見当たりませんが、写真が残されています。最前列中央に女性が3人並ぶ記念写真(浅子の向かって左に吉岡美国院長夫人初音、右にC. J. L. ベーツ高等学部長夫人ハティ)は、男子校だった関西学院には珍しいものです。

商科会初期の活動には、このほかにも特筆すべきものがあります。1913年夏休み、学生は教員宅を回って出資を募り、実習機関として消費組合を創設しました。学生が洋服を着て店員となり、文房具等の販売を始めたのです。当時キャンパス周辺は熊内大根の名所として知られ、のちに繁華街となる上筒井通りはモロコシとナスの畑でした。この消費組合は繁盛し、やがて専従者を雇うまでになりました。

1915年2月、商科会の会報『商光』が刊行されました。第一号の巻頭を飾ったのは、ベーツ高等学部長による講演論説OUR COLLEGE MOTTO, “Mastery for Service”でした。高等学部のモットーとしてベーツが提唱したこの言葉は、今や関西学院全体のモットーになっています。
こうした活動を牽引したのは、商科1期生(入学時36名、4年後の卒業時12名)の面々でした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 293, 2016.10)

グリークラブの名曲「U Boj(ウ・ボイ)」

「U Boj」は、日本最古の歴史を持つ関西学院グリークラブの演奏会に欠かせない名曲として知られています。この曲が伝えられた1919年9月、関西学院は原田の森(現・神戸市灘区)にありました。シベリアを転戦していたチェコスロバキア軍が船の修理のため神戸に滞在した時、グリークラブが兵士たちと交流し、手に入れた4曲の中の1曲でした。以来、曲名が「前線へ」を意味すること以外、歌詞の言語さえ不明のまま関西学院だけの演奏曲として歌い継がれてきました。

1965年9月、グリークラブは第1回世界大学合唱祭に招かれ渡米しました。ニューヨークのヒルトンホテルで開催された昼食会の席で陽気に騒ぐ南米の学生に触発され、グリークラブが「U Boj」を歌い始めた時、思いがけないことが起こりました。ユーゴスラビア連邦のスコピエ大学(マケドニア共和国)の学生が立ち上がり、唱和したのです。「チェコ民謡」として半世紀近く歌い続けてきた曲が、実はユーゴスラビアの有名な歌劇の中の曲であることが判明した瞬間でした。「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われたユーゴスラビア。「U Boj」はその中のクロアチア共和国の曲でした。

2008年9月、関西学院グリークラブフェスティバルに招かれたクロアチア共和国のドラゴ・シュタンブク駐日大使は、現役学生や卒業生と共にステージに立ち、「U Boj」を熱唱されました。2012年10月、東京で行われた新月会(グリークラブOB合唱団)リサイタルに招かれた後任のミラ・マルティネツ大使は、アンコール曲「U Boj」の演奏が終わるやいなや感極まって客席から立ち上がり、ステージに大きな拍手を送られました。歌詞のクロアチア語の発音について、両大使にこっそりお尋ねしたことがあります。「完璧です」。お二人はにこやかに太鼓判を押されました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 292, 2016.7)

私立大阪商業学校とW. R. ランバス



アメリカの南メソヂスト監督教会は、1886年に日本伝道を開始しました。伝道初期の様子を教会機関誌から知ることができます。J. W. ランバス(1889年に関西学院を創立したW. R. ランバスの父)が所属していた同教会ミシシッピー年会は、ルイジアナ年会、北ミシシッピー年会と共同でNew Orleans Christian Advocateを発行していました。同誌1622号(1887年9月1日)で、日本人から寄せられた熱い声をW. R. ランバスが”Seven Doors”としてまとめ、紹介しています。その7つの扉の6番目が大阪にある3つの学校から受けた英語教師派遣要請でした。

「毎日2時間、初級英語を教える教師が求められています。給与は月90円。日本式家屋の住居と礼拝所が提供されます」。この要請に応えるため、神戸の外国人居留地47番に住んでいたランバスは、毎夜神戸で2時間働くほか、昼に大阪で4時間英語を教えていました。両都市往復には2時間かかったそうです。さらに、大阪で教えていた一校について、具体的にこう記しています。「この学校(商業学校)の理事は日本で最も進取の気性に富んだ人たちだと言われています。中国との通商関係を見込んで、中国語(北京語)が毎日教えられています」。

2015年4月、大商学園高等学校事務長の平豊さんが来室されました。同校の年史で紹介されている1887年8月30日、31日付『朝日新聞』広告で、「本校教員」(として出願、または出願すべき者)に挙げられている「米国医学博士ランバス」とは関西学院創立者のことでしょうかと質問を受けた時、129年前にランバスが書いたこの記事の文言が鮮やかに私の脳裏に浮かびました。ランバスは確かに医者で、示された広告には英語だけでなく「支那語」教員の名もあったからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 291, 2016.4)

予言的中-中学部校舎焼失-

1917年2月28日午前9時過ぎ、中学部生徒が1時間目の授業を終え、礼拝に向かっていた時のことです。唱歌担当の岡島マサ(吉岡美国前院長義妹)が校舎3階の倉庫からパチパチと音がするのに気付きました。不審に思い扉を開けると、中は火の海でした。急を聞いて駆け付けた教職員、学生・生徒は、一致団結して重要書類や校具を運び出しました。音楽室から大型オルガンを一人で担ぎ出した生徒や、延焼を食い止めるため、本校舎から付属校舎に続く廊下を破壊した猛者もいたそうです。

懸命の努力も空しく、4年前に竣工したばかりの中学部校舎は短時間の内に焼け落ちてしまいました。当時、キャンパスがあった原田の森には水道設備がなく、市電の終点上筒井駅の防火用水道口からホースを135本も繋いだと伝えられています。

実は、かつてこの地は第三高等学校移転候補先の一つでした。同校は、1949年、京都大学(1897年、京都帝国大学として創立)に統合されましたが、その起源は1869年に大阪で開校された舎密局(せいみきょく)と洋学校まで遡ります。両校は合併し、1886年に第三高等中学校(8年後、第三高等学校と改称)となり、1889年8月、京都に移転しました。この移転問題は大学設置構想と相まって、その4年前から具体化していましたが、最有力候補だった京都伏見案が頓挫した後、学校側が一番に推した移転先が兵庫県原田村だったのです。そこに関西学院が創立されたのは1889年9月のことでした。

関西学院高等商業学部同窓会の『会報』第7号(1927)はこう伝えています。「第三高等学校が是の地に新設される可きであつたに其当時の技師が断言して曰く、萬一是の土地に新設して火事でもある時は全校舎を焼く故に他に適当の地あらば良きとの事にて京都の吉田山下に持つて設立されたと聞く…」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 290, 2016.2)

ヘーデンの日記

T. H. ヘーデンは、南メソヂスト監督教会宣教師として1895年8月に32歳で来日し、45年にわたり日本で活躍しました。関西学院では、J. C. C. ニュートンの跡を継ぎ、第2代神学部長を務めました。来日1年後に書き始めた日記は、アトランタのエモリー大学に保管されています。

日記は1896年10月21日から始まります。初日には、1年前の来日時の模様が詳しく記されています。ヘーデンがヴァージニア州パルマイラの実家を発ったのは1895年7月22日朝でした。27日にテネシー州ナッシュビルでジェニー・コンウェルと挙式後、シカゴへ。そこでニュートンと合流し、カナダ太平洋鉄道で大陸を横断。バンクーバーから船で横浜、神戸に向かいました。ニュートンは1888年の来日後初の休暇帰国を終え、関西学院に戻るところでした。

この日記のおかげで、のちに第4代院長を務めるC. J. L. ベーツ一家が関西学院に到着したのは1910年9月6日であったことがわかります。ベーツは、カナダ・メソヂスト教会から送られた最初の宣教師でした。ベーツ一家は10日朝までヘーデン家の世話になりながら、家具の到着を待ち、自分たちが暮らす宣教師館の準備をしました。

1918年9月15日には、ラトビア人青年イアン・オゾリンが客間に滞在中であることが記されています。9月から関西学院で教え始めたオゾリンは住む家が見つからなかったようです。前年妻を亡くしたヘーデンの家で暮らしながら、学生寮に食べに行っていたことがわかります。日本の普通の食事を学生に交じって食べるのがオゾリンの性に合っていたのでしょう。そんな同居人のことを一旦「シベリア人」と書き、それを「ラトビア人」に直しているのも興味深いことです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 289, 2015.10)

吉田松陰の脇差し

1929年、カナダ人宣教師H. W. アウターブリッヂの長男ラルフは医学を学ぶため帰国しました。離日前、ラルフは父の教え子藤田威和男の自宅に招かれ、日本刀の見事なコレクションを見せてもらいました。ラルフ自身も日本刀の収集を趣味にしていたからです。記念に一振りの脇差しを贈られました。以来、この脇差しは世界中どこを旅する時もラルフと共にありました。

外科医となったラルフは、1979年のある日、バンクーバーの自宅書斎の壁に飾られた脇差しに目を留めました。すっかり色褪せた錦織の鞘はその古さを物語っています。鞘内部の黒い綿の裏打ちはほとんど朽ちていました。その時、内側に何か白いものがあることに気付きました。慎重に取り出してみると、絹地に「吉田松陰好作造 松陰差料 記念品 …藤田家宝」の文字が見えました。

驚いたラルフは、これが事実ならこの脇差しは私有すべきでないと考えました。そして、その真偽が検証されました。松陰が米艦に乗り込んだ際、小舟に置き忘れた脇差しは後日、松陰に返還されました。それが藤田家に伝えられたのは、兵庫県知事伊藤博文を通してのことでした。しかし、確かな史料は見つからず、「伝吉田松陰の刀」と鑑定されました。

1988年6月8日、脇差しは松陰生誕の地でラルフの手から小池春光萩市長に返還されました。その時、日本で生まれ育ったラルフは日本語でこう挨拶しました。「松陰は幕府の禁制を犯して日本を出国し、世界に雄飛しようとはかりました。その夢は残念ながら果たせなかったわけでありますが、はからずもその刀がカナダ人青年である私に託され、世界の五つの大陸を訪れることになったわけであります…」。松陰斬首から129年後のことでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 288, 2015.7)

お気の毒トリオがゆく

関西学院第4代院長選出は難航しました。J. C. C. ニュートン第3代院長が高齢を理由に辞任を願い出た時、次期院長として理事会で名前が挙がったのは、R. C. アームストロング、C. J. L.ベーツ、松本益吉の3名でした。しかし、様々な意見が出てまとまらず、一旦白紙に戻されました。2カ月後、理事会で再審議された時、ベーツ、D. R. マッケンジー、松本が候補に挙がりました。投票の結果、ベーツが7票を獲得し、院長に選出されました。当初から一貫してベーツを推していたのはニュートンでした。71歳と42歳の二人は親子ほど年が離れていました。

1920年4月29日、院長選出の知らせをベーツはカナダのオタワで受けました。当時、関西学院から東京の中央会堂(現・本郷中央教会)に移っていたベーツは、弟急死の知らせを受け、帰国していました。アメリカのイェール大学からも招聘を受けていたベーツは、即座に関西学院の方に”Accept”と返電したかったのですが、そうできない事情がありました。日本に帰る旅費がなかったのです。

「私は日本に750ドルの借金があります。これは先の委員会の援助により450ドルに減らすことができそうです。しかし、日本に戻るには800ドル以上必要です。伝道局の援助は期待できないでしょうか? …私にはこんな要求をする権利などありませんし、こんなことをお願いするなんて身の縮む思いです」。

これは、ベーツが伝道局のエンディコット宛てに出した4月30日付書簡の一部です。院長就任式が10月15日に関西学院で無事執り行われたことから推測すると、ベーツは金策に成功したようですね。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 287, 2015.4)

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「日本一の英語」と「文学部の宝」

関西学院創立初期の日本人教師には留学経験者もいて、英語の達者な人が多かったようです。中でも、第2代院長を務めた吉岡美国の英語は日本一と言われました。その英語力を伝える逸話があります。

セオドア・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めたフェアバンクスが1909年に来日した時、神戸高等商業学校で講演会が開催されました。講演終了後、神戸高商校長の水島鐵也と関西学院院長の吉岡が英語で謝辞を述べました。その時、吉岡の英語があまりに垢抜けしていたので、「日本でこのような洗練された英語を聞くとは期待しなかった」とフェアバンクスが驚嘆したそうです。その発音については、学校近くにあった耶山堂で注文する時、アメリカ人並みの発音で ”orange cider”と言うので、全く通じなかったと教え子が書いています。戦後、占領軍が来た時、吉岡は自宅の門前に英語の木札を掲げました。そこには、英米人で困っている人があれば、遠慮なくこの家にお入りください…という意味の言葉が書かれていたそうです。

吉岡とは対照的に、決して英語を使わない教師もいました。神学部、普通学部、文学部で漢文を教えた村上博輔です。ドイツ語で日記を書き、英文学書を自由に読みこなし、フランス語もできた村上は、「人格、学識共に群を抜いて優れてゐた近来稀に見る大人物であった」と『文学部回顧』(1931)で紹介され、「文学部の宝」とまで称賛されています。広島でW. R. ランバスから受洗した村上が、宣教師に対し英語を使うことなく、悠々と日本語だけで押し通す姿は、吉岡とは別の意味で学生の目には痛快に映ったことでしょう。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 286, 2015.2)

人知れぬ苦労

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中国や日本に派遣された宣教師の子どもの多くは、家庭内で両親から教育を受けて育ちました。しかし、学校教育も必要との考えから、ある年齢に達すると、家族と離れて単身海を渡り、故国の学校に入学するのが常でした。そんな子どもたちには人知れぬ苦労がありました。

関西学院の創立者ウォルター・ランバスの妹ノラは、1874年に11歳で帰国しました。テネシー州ナッシュビルのD. C. ケリー家に大学生の兄と共に下宿し、学校に通うことになったのです。敬愛する9歳年上の兄が一緒とは言え、両親と離れての異国での生活は心細いものでした。しかも、兄の靴下の穴かがりという骨の折れる仕事まであったのです。父や母、上海の家、中国の友だちのことを思い、ノラは一晩に何度も泣きながら眠りにつきました。

1895年まで関西学院で教えていたT. W. B. デマリーの長男ポールは、1910年にテネシー州マッケンジーの高校に入学しました。当時一家は松山に住んでいました。帰国にあたり、神戸の中国人テーラーで父親が誂えてくれた洋服は、生地も仕立ても申し分ないものでした。ただ、デザインがいささか流行遅れでした。登校したポールは着ている服のことでからかわれました。「これは神戸の中国人テーラーが仕立てたアメリカンスタイルの服だ」。ポールが言い返すと、「お前は日本人か? 中国人か?」と囃し立てられました。「どちらでもない。僕はアメリカ人だ。僕が日本人に見えるのか?」。「見えるさ。こいつは『ジャップ』だ。ジャップ・デマリー!」。

以来、大学を卒業するまでポールはそう呼ばれ続けました。それは、ポールにとって不愉快ではなく、むしろ嬉しいことでした。自分が皆に受け入れられた最初のしるしだったからです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 285, 2014.12)

生と光と力の拠点

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原田の森の院長室からは、学生の通学風景がよく見えました。関西学院の学生・生徒に交じって、北隣にあるカナディアン・アカデミーに通う外国人少年少女の姿もありました。1922年6月のある日、その様子を眺めながら、C. J. L. ベーツ院長はこう考えました。「関西学院には世界各地の実に様々な人や文化が集まってくる。国家の枠を超えた拠点だ。目と心と頭を開いていれば、ここで暮らすこと、ここで教えること、ここで学ぶことは、特別な恩恵である」。

キャンパスの中央に古い神社がありました。その周りに、レンガ造りの新しい校舎が次々に建てられました。神学館(1912)、中学部(1913、1919)、中央講堂(1922)、文学部(1922)、高等商業学部(1923)。ベーツはその見事な新旧対比に目を留めました。そして、進歩の中で先人の成し遂げた偉業を忘れてはならないと考えました。

窓から遠くに目をやると、神戸の街と製鉄所と港が見えました。海は世界に通じていました。暗くなると追いはぎが出ると恐れられた学校の周囲は、創立時とはすっかり様相を変えていました。交通網が充実し、神戸中心部へのアクセスが便利になり、大阪方面への移動もスムーズになりました(1919年、神戸市電布引線が熊内一丁目から上筒井まで延長。1920年、阪神急行電鉄神戸線開通)。近くに駅ができたことにより、正門前の大根畑は姿を消し、商店街になりました。
「新旧、現実と理想、善悪、生死、関西学院はそれらすべての中心にいる。…私たちの手で関西学院を生、光、そして力の拠点にしようではないか。そうしようと思えば、私たちにはそれができるのだ」。今から92年前、院長就任2年目のベーツは、学生にこう呼びかけました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 284, 2014. 9)

遺骨の行方

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関西学院を創立したW. R. ランバスは、創立後2年も経たない内に日本を離れました。しかし、日本との縁が切れたわけではなく、何度か来日しています。1907年には卒業式で話をしました。天に召されたのも、日本訪問中の1921年9月26日のことでした。

横浜で亡くなったランバスの遺骨は原田の森の神学部講堂に運ばれ、10月3日にチャペルで追悼礼拝が行われました。数日後、遺骨は関係者に抱かれ、小野浜墓地に向かいました。1892年に逝去した父親に別れを告げるためでした。それから、上海に渡りました。吉岡美国第2代院長によると、それはご遺族の希望だったそうです。代わりに、中央講堂の礎石に遺髪が納められました。10月11日、上海の教会(沐恩堂)で葬儀が行われ、ランバスは八仙橋公墓E27に埋葬されました。愛する母の傍らで安らかな眠りについたのです。  

1957年12月、墓地が上海郊外の吉安公墓に移転し、母子の墓も第6区画 101番と102番に移されました。ところが、文化大革命が起こり、行方がわからなくなってしまいました。それは1967年5月か6月のことであったと推測されます。これらの調査は1980年にW. D. ブレイ夫妻によって行われ、後年、山内一郎院長、神田健次教授も個別に現地を訪ね歩きました。

これとは反対に、蘇州で革命の嵐から守られた墓がありました。襲撃を察知した何者かがランバスの義弟W. H. パークの骨壺をこっそり運び出し、隠したのです。遺骨は1987年に再び埋葬されました。中国で医療伝道に生涯を捧げたパークは、ランバスとの関係を生前こう語っていたそうです。「私は、家と家具と病院と医学校と妹さんをランバス氏から譲り受けました」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 283, 2014. 8)

原田の森の小さな学校

「アジアでリーダーシップがこんなにも重要とされる時、ニュートンをお遣わしくださった神に私たちは感謝しなければなりません」。関西学院を創立したW. R. ランバスは、J. C. C. ニュートン第3代院長をこう評しました。誕生間もない小さな学校が数々の困難を乗り越え、関西学院としてのアイデンティティを築くことができたのは、他ならぬニュートンのおかげと考えたのです。

病気のため北海道農科大学(現・北海道大学)を退学した学生が進路を決めかね、原田の森の関西学院を訪ねた時、門の前で白髪の老人に声をかけられました。事情を話したところ、「では、関西学院に来なさい」と親切に勧められました。「こういう温かい人がいるなら、きっと良い学校に違いない」。そう確信した学生は高等学部文科への入学を決めました。この学生は、後に中学部教諭を務めた平賀耕吉、白髪の老人はニュートン神学部長でした。

成全寮2階で行われた神学部学生会が長引き、ニュートンが寮で学生と夕食を共にしたことがありました。その夜のおかずは、おからといなごを甘辛く煮たもので、ニュートンにとっては初めて口にするものでした。4~5日後、ニュートンから寮にローストチキン3羽の差し入れが届けられました。その心遣いと料理の美味しさに40数名の神学生は感激しました。

「ニュートン先生には、威厳に満ちた、神聖とも言えるオーラがありました」。第7代院長を務めたカナダ人宣教師H. W. アウターブリッヂはこう書いています。学校経営に関し、厳しい決断を迫られる日々、ニュートンは全構成員に父親のような愛情を注いだと言われます。原田の森の小さな学校はニュートンの温もりに包まれていました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 282, 2014. 6)

ミズーリ州の W. B. パルモア

1886年11月26日、のちに関西学院を創立するW. R. ランバスは、神戸の居留地47番で青少年のための読書館(夜間)を始めました。この読書館は、翌年 1月 4日に開催された南メソヂスト監督教会日本宣教部会において、パルモア学院と命名されました。それは、神戸を訪れ、読書館に深い関心を寄せたW. B. パルモア牧師から100ドルの寄付を受けてのことでした。この寄付は、図書や雑誌の寄贈と共に毎年続けられることになりました。

1888年11月 1日、N. W. アトレーがパルモア学院で昼間の授業を開始しました。翌年1月には、それが昼間の学校になりました。9月28日の関西学院創立に伴い、アトレーは初代普通学部長に就任します。パルモアは、関西学院創立前史に大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

ランバスの母校ヴァンダビルト大学 1期生のパルモアは、ミズーリ州で20年以上St. Louis Christian Advocate誌の編集に当たったほか、世界中を旅した旅行家としても知られていました。神戸だけでなく、メキシコにもパルモアの名を冠した学校がつくられました。ヨーロッパからタイタニック号で帰国する予定だったところ、パリで交通事故に遭い肩を骨折したため命拾いしたとのエピソードが残っています。

創立初期の関西学院で教えた鈴木愿太(上海からランバス一家と共に来神した通訳、南メソヂスト監督教会日本伝道の初穂)、西川玉之助等の留学先はミズーリ州のセントラル大学(現:セントラル・メソジスト大学)でした。昨年10月、同大学を訪問した時、パルモアは何人もの学生を経済的に支えていたと、アーキビストのジョン・フィンレーさんが教えてくださいました。」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 281, 2014. 4)

それぞれの義和団事件

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関西学院第4代院長(1920-40)を務めたC. J. L. ベーツが宣教師としての献身を決意したのは、1902年にトロントで開催された学生ボランティア大会に参加したことがきっかけでした。当時、モントリオールで牧師をしながらウェスレアン神学校に通っていた24歳のベーツは、金銭的にも時間的にもトロントまで行く余裕はありませんでした。1月に神学校を訪れたF. C. スティーブンソン博士は、そんなベーツに10ドルを差し出し、大会への参加を勧めたのです。

大会は翌月、トロントのマッセイ・ホールで開催されました。会場で、J. R. モット博士が中国からの電報を読み上げました。「北中国は呼んでいる。あきを埋めよ」。それは、1900年に起こった義和団事件により、250人の宣教師と数千人の中国人信徒が殺されたことを指していました。この時、300人の若い男女が立ち上がりました。その中に若き日のベーツの姿もあったのです。

義和団事件には関西学院を創立したW. R. ランバスの妹ノラ一家も巻き込まれました。全ての宣教師が任地を離れ、上海に移るよう命じられた時、李鴻章に対する信頼の証しとして、ノラの夫W. H. パークだけは頼まれ、しばらく蘇州に留まりました。ある種の人質でした。夫を支え、妻も娘と共に残りました。実際、博習医院(蘇州病院)には患者が溢れかえっていたのです。中国の役人が毎日家族の無事を確かめに来ました。

そんなある日、輿に乗って往診に出かけたパークが襲われました。「外国人を殺せ!」。集まった群衆から叫び声が上がりました。危機一髪のまさにその時、輿の中を覗いた誰かが制しました。「外国人じゃない。パーク先生だよ」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 280, 2014. 2)

東京オリンピックとカナダ親善演奏旅行

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2020年夏のオリンピック開催が決まった東京で、アジア初となる第18回オリンピック競技大会が開催されたのは1964年10月10日から24日まででした。関西学院からは、陸上競技、飛込競技、馬術、サッカー、バレーボール、レスリングに11名が出場しました。「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームを率いた大松博文監督は、関西学院排球部時代、「左手によるタッチ攻撃と右手によるスパイクを見事に使い分け」た名選手だったと、かつてのチームメイト末尾一秋教授が紹介しています。

この時、全国吹奏楽コンクールで2年連続優勝した応援団総部吹奏楽部がオリンピックで賑わう日本を後にしました。カナダ選手団派遣のための特別機を利用し、カナダ親善演奏旅行に向かったのです。3年前に関西学院を訪問したディフェンベーカー首相への答礼の意味合いもあったようです。こうした各国選手団派遣機を利用したチャーター計画がオリンピックを前に次々に申請されましたが、日本の航空運賃体系を乱すとの理由から却下されました。関西学院の申請だけが、外務省、運輸省の好意により唯一の例外として認可されたと『母校通信』は伝えています。

吹奏楽部が乗った飛行機は羽田からモントリオールまで12時間半で飛びました。民間機としての世界最長記録だったそうです。ベーツ第4代院長の母校であるマギル大学を皮切りにバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学まで、バスで移動しながら20回以上の演奏を行い、各地で歓迎を受け、マスコミにも大きく取り上げられました。そして、アウターブリッヂ第7代院長との再会、前年亡くなったベーツ院長の墓参りを果たし、オリンピック閉会式の夜遅く無事帰国しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 279, 2013.12)

創立五十周年記念式典

1939年10月14日、関西学院は創立五十周年記念式典を挙行しました。その招待状は、6月30日付でC. J. L. ベーツ第4代院長から海外の諸大学に送られました。この時の発信記録は見当たりませんが、出欠の回答は残されているだけで70校近くにのぼります。北米のみならず、イングランド、スコットランド、アイルランド、レバノン、アフリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドの大学からも返信が寄せられ、内20校からは出席の返事がありました。出席の中には、南メソジスト大学、トロント/ヴィクトリア大学、マウント・アリソン大学等、現在も協定校としてお馴染みの学校が含まれています。

船旅の時代のことですから、出席といっても関西学院のために代表団がはるばる来日するわけではありません。招待状を受け取った各大学は、日本在住の卒業生に連絡し、母校の代表として関西学院の記念式典に出席するよう要請していたのです。日野原善輔はデューク大学、S. M. ヒルバーンは南メソジスト大学、W. K. マシュースはヴァンダビルト大学、その妻エヴァはランドルフ・メイコン大学の名代を務めました。実は、その頃のベーツは、院長は日本人であるべきとの考えを持つ人が学内にいることを知り、辞任を考え始めていました。こうした困難な状況の中、世界中の大学に創立五十周年を共に祝って欲しいと願ったのです。

関西学院の使命とその歴史を簡単に紹介したベーツの招待状に対し、ボードン大学(メイン州)のシルス学長はこう返信しました。「今日のような緊張感と不確実性に満ちた時代、高等教育機関の国際親善に果たす役割は実に大きなものがあります」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 278, 2013.10)

「人間宣言」とヴォーリズ

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関西学院第4代院長C. J. L.ベーツとそのキャンパス設計者W. M. ヴォーリズの親交についてはよく知られています。関西学院におけるヴォーリズの初仕事は原田の森の神学館建設(1912年)でした。1940年12月末、半身不随の妻を連れ離日したベーツに対し、日本人と結婚していたヴォーリズは日本に帰化する道を選び、一柳米来留と名乗りました。そんなヴォーリズが戦後、ダグラス・マッカーサーと近衛文麿の間を取り持ったことは、上坂冬子の「天皇を守ったアメリカ人」(『中央公論』1986年5月号)等で紹介されています。ここではヴォーリズがカナダのベーツに書き送った手紙(1947年3月24日付)から生の声を紹介しましょう。

「私は〔近衛文麿〕公とマッカーサー元帥との最初の会見を手配するための私的な使者でした。さらに驚くべき仕事は、天皇もその先祖も自分たちのことを『神』とは考えていないという天皇の宣言を提案することでした。外国人に理解されうるある種の宣言の英文原稿を作ることまで〔近衛〕公に頼まれたのです。公も私も天皇の心情を理解していました」。近衛の求めに応じたことをヴォーリズは日記にも記しています。日記によると、「『天皇の一言』を含む詔勅、または宣言文の草案」をヴォーリズが思いついたのは1945年9月12日早朝だったようです。

昭和天皇のいわゆる「人間宣言」(1946年1月1日)へのヴォーリズの関りは、手紙が書かれた1947年時点では公にされていません。それをベーツに告げていることから両者の信頼関係の強さがうかがわれます。このヴォーリズ書簡は、1999年にモントリオールを訪問した際、ベーツ院長ご令孫アルマン・デメストラルさんのお宅で興味深く拝見した資料のひとつでした。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 277, 2013.8)

クレセントの秘密

J. C. C. ニュートン第3代院長の故郷はサウスカロライナ州ペンデルトンです。2002年に曾孫のエモリー・アンダーウッドさんとその地を訪ねた時、クレセントマークが白く染め抜かれた青い州旗が目に留まり、我が目を疑いました。何故ここに関西学院の校章があるのでしょうか。

関西学院の校章制定は、学校創立から5年後の1894年のことでした。選ばれたクレセントには、月が太陽の光を受けて輝くように、我々も神の恵みを受けて自らを輝かせ続ける存在であり、新月がやがて満月になるよう、理想を目指し、進歩向上して行くのだとの意味づけがなされました。しかし、後年、クレセントが選ばれた本当の理由を卒業生から尋ねられた吉岡美国第2代院長はこう答えたそうです。「あれはそんなにむつかしいわけがあつて付けたのではない。昔の武士が戦争にいくとき…、兜の正面に三日月を付けたのがあるがあれから思いついて付けたのだ」。

この話をニュートンの生涯に結びつけて考えると、17歳で南軍の一員として戦った南北戦争が思い起こされます。ニュートンはクレセントマークを付け、故郷のために戦ったのではないでしょうか。植民地時代からサウスカロライナのシンボルだったクレセントが兵士の帽子に初めて使われたのは1760年2月のことだったと言われています。クレセントの中に”PRO PATRIA” (祖国よ)、“LIBERTY”(自由)等の文字を書き込んで独立戦争を戦った部隊もありました。

ニュートン院長時代の関西学院に学び、クレセントに対する思い入れが人一倍強かった稲垣足穂(旧中大8)は「帽章が曲がっている」と教師から注意を受けた時、「私は本物の三日月の傾きにあわせて徽章の角度を変えているのです」と胸を張ったそうです。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 276, 2013.6)

吉岡美国の留学-ヴァンダビルト大学-

関西学院神学部教授に任命された吉岡美国は、1890年からアメリカに留学することになりました。留学先は、創立者W. R. ランバスの母校ヴァンダビルト大学神学部(テネシー州)でした。

そこで吉岡は尹致昊(ユン・チホ)と親交を結びます。上海の中西書院で学んでいた尹は、南メソヂスト監督教会宣教師W. B. ボンネル、Y. J. アレンの尽力により留学していました。ランバスを通じ日本で既に顔を会わせていたと思われる2人は、信仰や世界情勢や結婚観について語り合い、時には激論を戦わせました。尹は日記の中で吉岡の人柄と英語力を高く評価しています。その吉岡から牧師ではなく政治家になると予言された尹は、祖国に戻って朝鮮の独立運動に身を投じました。しかし、日本の敗戦後、その親日的態度が批判を浴び、自ら命を絶ったと伝えられています。

吉岡の1級下にはS. E. ヘーガーが学んでいました。ヘーガーは宣教師となって来日し、関西学院で普通学部長を務め、吉岡の病気療養中は院長代理を兼任しました。また、1年遅れで留学した関西学院神学部生政尾藤吉は、神学から法律に専門を変え、後にシャム政府の法律顧問を務めるなど活躍しましたが、公使として赴任中のバンコクで客死しました。
彼らの前には、宋嘉樹(耀如)も学んでいます。宋は、映画にもなった「宋家の三姉妹」の父親です。帰国後、上海で聖書の印刷に関わったことから実業界に転じて財をなし、子どもたちをアメリカで学ばせました。そして、長女靄齢が孔子の末裔を名乗る財閥の御曹司孔祥煕、次女慶齢が孫文、三女美齢が蒋介石と結婚したのです。数々の出会いを重ね、2年間の留学生活を終えた吉岡は、関西学院第2代院長に就任しました。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 275, 2013.4)

失われゆく母校の記憶

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久しぶりに母校を訪れた卒業生から失われた校舎への郷愁の思いをお聞きし、心打たれることがあります。高等部(旧中学部)校舎や商学部(旧高等商業学校)チャペル(講堂)を惜しむ声は特に大きいようです。近々中央講堂が取り壊されます。中央講堂は、創立70周年の折り、19年ぶりにカナダから来日したC. J. L. ベーツ第4代院長が”Mastery for Service”について力強く語った場所でした。そのベーツ自身も今はもう見られぬ風景をスケッチ(水彩)に留めています。

このスケッチは、ベーツ一家の住む宣教師館(現ゲストハウス)で描かれたものと思われます。建物の南面には広い芝生の庭が今もあり、生垣で囲われていますが、その庭から南西方向を眺めた景色です。現在関西学院会館がある辺りには日本人教師住宅が6軒建っていました。外国人住宅(宣教師館)は10軒あって、東西に一列に並んでいましたが(今も残るのは東端のベーツ館から9軒)、日本人住宅はその南側に東の端から3軒ずつ2列に並んで建っていました。そこは、キャンパスの一角に佇む小さな集落といった趣だったかも知れません。外国人住宅北側を東西に走る小道は、かつては「ベーツ坂」と呼ばれていたそうです。

1991年10月、大阪芸術大学建築学科建築歴史研究室がこれらの建物の実測調査を行いました。その調査結果と照合すると、描かれた建物は、左から日本人住宅A(北立面図)、E(北立面図)、B(東立面図)と見事に一致します。ベーツのスケッチは実に写実的でした。

紅葉した木が描かれていますから秋の風景です。スケッチブックの表紙に記された「1936」の文字から、1936年以降日本を去る1940年までの間に描かれたものと推測されます。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 274, 2013.2)

国際感覚

「太平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」と歌われた黒船来航から60年以上経った1917年12月4日、「四杯」の一隻、サスケハナ号の乗組員だったキャプテン・ハーデーが原田の森の関西学院を訪れました。ペリー提督と共に日本を訪れた最後の生存者と言われた81歳のハーデーは、翌5日、高等学部南側広場で1300人もの聴衆を前に講演しました。日米修好通商条約調印後、幕府は新見正興(豊前守)を正使とする使節団をアメリカに派遣しましたが、その際副使を務めた村垣範正(淡路守)の随行員だった皆川菊陵が原田の森に駆けつけました。講演が終わり、両者が感慨深く握手を交わす姿を聴衆は感動の面持ちで見守ったと伝えられています。

数ヶ月にわたり各地で熱烈な歓迎を受けたハーデーは「日本滞在中、アメリカに対する非難の言葉は一言たりとも耳にしなかった」と、The New York Timesに書き送りました。

関西学院がこのような機会に恵まれたのは、アメリカとカナダの教会が経営に関っていたのも一因でしょうが、神戸港に近いという地の利も看過できません。卒業生でもある畑歓三教授はこう述べています。「…ここに住む者は著しく国際意識を覚醒されたものである。吾等も原田の学舎から神戸港を見下して、英米仏独以下其他の国々の貿易船を眺め一々船名迄も覚えて居たものであつた。休日にはボートを漕ぎ出して外国船訪問を行つたりした。まだ米国から木材を積んだ大帆船が頻繁に来る頃であつたが、或る年のクリスマスの前日に此帆船の一つを訪問し船長の妻君から非常な歓待を受け御馳走になつて帰つた事などあつた。かういふ事情に刺戟されて学生の気分は著しく国際的となり若輩ながら思ひを海外に馳する者少なくなかつたに相違なく…」。(学院史編纂室 池田裕子; 『K. G. TODAY』vol. 273, 2012.12)