関西学院を創ったひとたち:吉岡美國

[ 編集者:吉岡記念館       2018年5月24日 更新  ]

日露戦争戦捷(センショウ)記念碑(1909年)-47歳-

日露戦捷記念碑
日露戦争戦捷記念碑_現在

日露戦争終結から4年後の3月10日、原田の森キャンパスに日露戦争戦捷記念碑が建立された。関西学院関係者(在学生、教職員、卒業生、中途退学者、退職教職員を含む)総数が200名にも満たなかった時代、日露戦争に出征した関学関係者は13名もいた。
この記念碑は、キャンパスの移転に伴い上ケ原に移された。現在、高中部礼拝堂の東側の道に面して置かれている扇形の石(日露戦争出征者と記念碑建立寄付者の名が刻まれている)がその一部である。

神学館定礎式(1911年)-50歳-

神学館定礎式

カナダ・メソヂスト教会が関西学院の経営に参加することになり、校舎整備計画が立案された。そこで、3年前に専門学校として認可された神学部の校舎が建てられることになった。これが、関西学院におけるヴォーリズ建築の最初である。定礎式に集まった人々の中心にいたるのが吉岡。中央の星条旗の左側にある日の丸の下には若き日のベーツの横顔も見える。
完成した神学館の玄関に掲げられたのは、神学部の創立以来のモットー「真理将使爾自主」の額であった。

欧米訪問(1914年)-52歳-

欧米訪問

4月初旬、吉岡は、日本メソヂスト教会の代表として、南メソヂスト監督教会総会に出席するため渡米した。オクラホマでの総会の後、各地の教育事情を視察しながら懐かしいヴァンダビルト大学を訪問し、アメリカに留学中の教え子たちと再会した。これは同大学のウエスレーホール入り口で撮影された写真である。
北米訪問後は、大西洋を横断し、スコットランドのグラスゴーに向かった。英国で、第一次大戦勃発直前の不穏な動きを察知した吉岡は、パリ訪問を諦め、ベルリンに向かったが、シベリア鉄道経由の帰国が不可能となったため、ロンドンに戻り、大戦勃発後最初の帰国船に乗った。 9月28日、関西学院の教師・生徒が振帽拍手万歳で迎える中、吉岡は無事神戸港に到着した。

創立者ランバスを原田の森に迎えて(1919年)-57歳-

創立者ランバスを原田の森に迎えて

10月30日、関西学院を訪問したランバスは、朝9時よりチャペルで講話した。午後3時からは学生会館で歓迎会が開かれ、ランバスは、フランスやドイツやロシアの情勢について語った。この2カ月前には、神戸中央教会(現、神戸栄光教会)で説教に立ち、神戸で亡くなった父親の墓を大切に守ってくれている教会員に感謝の言葉を述べている。
これは、原田の森キャンパスで、初代院長ランバス(中央)、第2代吉岡(左)、第3代ニュートン(右)が顔を合わせた珍しい写真である。

創立者ランバスの父の墓前(1921年)-59歳-

創立者ランバスの父の墓前

日本訪問中に発病した関西学院の創立者ランバスは、 9月26日、横浜で亡くなった。臨終の際、"I shall be constantly watching"という言葉を残した。
10月 3日、悲しみに沈む関西学院でランバスの告別式が挙行された。4日後、吉岡の胸に抱かれたランバスの遺骨は、小野浜墓地(現、神戸市立外国人墓地)に眠る父親に別れを告げた。さらに、吉岡、ニュートン、タウソンの3人は、遺骨と共に上海に渡り、中国で伝道活動を続けていたランバスの妹夫婦に再会した。

ニュートン第3代院長の帰国(1923年)-61歳-

ニュートン第3代院長の帰国

  5月15日、40年におよぶ日本滞在を終えた第3代院長ニュートン夫妻が故国アメリカに帰国した。吉岡にとっては、創立後わずか1年数カ月で日本を去ったランバスに代わって、助け合い、苦労を共にして来た大切な仲間との別れであった。吉岡は横浜港までニュートン夫妻に同行し、別れを惜しんだ。
神戸港での見送りには2千人が集まった(当時の関西学院教職員、学生、卒業生総数3千5百名)。「周知の通り、本学は故ランバス監督によって創立されました。しかし、それを今日の姿にしたのはニュートン先生です。それゆえ、前者を実の父、後者をすばらしい学びの場に作り上げた、育ての父と呼びたいと私は思います。日本の古い諺に『産みの親より育ての親』と言います。ですから、私は個人的に、ニュートン先生を一層敬愛し、大切に思うのです。」と、『学生会時報』第7号は伝えた。

上ケ原キャンパスの3院長(1940年?)-79歳?-

上ケ原キャンパスの3院長

ベーツ第4代院長は、太平洋戦争勃発前の1940年に院長・学長を辞任し、"Keep this holy fire burning"という言葉を残してカナダに帰った。上ケ原キャンパスで撮影されたこの写真は、その少し前に撮られたものであろう。左端は、吉岡の女婿でベーツのあとを継いで第5代院長を務めた神崎驥一。
終戦後の1948年 2月26日、吉岡は「附添う夫人はじめ家人一人々々に別れの言葉をのべ、最後に、学院のために、と特に感謝の祈祷を捧げ」た後、85歳で息を引き取った。

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