神学部生の声~過去アーカイブ~

[ 編集者:神学部・神学研究科       2019年4月18日   更新  ]

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キリスト教思想・文化コース生の声

キリスト教が日本に与えた、世界の思想を見出す - 4年・ 梁 亜由美

宗教を学ぶことで私たちを取り巻く文化的環境が見えてきます。明治以降、日本に到来した西洋文化の中でも大きな影響力を持ったのがキリスト教でした。

キリスト教を学ぶことは近代以降の日本の思想的根拠にさかのぼることと言えます。そのため、神学部での学習は多岐に渡り、各個人の関心に沿った研究が可能となります。
小説や映画など、私たちが普段から親しんでいるものの中にも宗教的、キリスト教的要素を見出すことができ、神学部での学びはそれらの理解を深めることとなります。そして、これら自分の関心事に学問として取り組むとき、私たちの学習はとても長い歴史の中で培われたゆるぎない神学の営みに支えられています。

与えられた知識と向き合い、それを自分の学習と繋げ、高めていくことがその営みに組み込まれている私たちの役目だと思います。(2015年 5月 『神学部報』より抜粋)

神学という名の学びの種 - 4年・木下 智博

私たちは人生の中で、多くの種を蒔きます。これまでも、そしてこれからも、さまざまな経験の中で私という「土」に種を蒔き、育てていきます。残念なことに、必ずしもそれらがすべて、花を咲かせるとは限りません。さらに、私たちは種を蒔くとき、その種が確実に咲くかどうかを知ることもできません。その不確かさは、私たちに不安を抱かせます。

私がこの関西学院大学神学部に入学した時にも、そんな不安を抱いていました。クリスチャンでない私が、神学部で学ぶことの意味とは何だろう、神学なんてできるのだろうか、という不安です。その意味で、神学部で過ごす時間とは、私にとってまぎれもなく、神学という名の学びの種を蒔くことでした。迷いながらも学びを進めるうちに、この神学という種はひょっとすると、他のものより遅咲きで、芽を出すのは、私たちがここを巣立ったずっと後のことなのかもしれない、とも思いました。しかし、芽を出す時期や咲き方は人によって違えども、いつしかきっと、私たちを休ませ、支えてくれるような大樹になるのではないか、一方でそんな予感もしています。

神学部という学び舎は、本当に大切な学びとは何か、ヒントを与えてくれるものであると卒業まで1年を切った今、実感しています。それは、何かこれだけのことをすれば、これだけのものが得られる、というものではありません。むしろ、不確かさの中で歩みを進めること、その不安が、実は私たちという「土」を豊かにしてくれるものであることに気づかされる、そんな学びであるように思えます。

右も左もわからなかった私が、このような学びを知り、楽しむことができるまでに至ったのは、先生方はもちろんのこと、共に学ぶ仲間にも支えられてのことでありました。心から感謝をしたいと思っております。(2010年 6月 『神学部報』より抜粋)

価値観は多種多様。どれも尊重されるべきであり、互いに認め合ことが重要。- 4年・高橋 博厚

私が神学部に入学したとき、私はここでの学びが自分自身にとって何の意味を持った学問なのか分からないという不安がありました。その理由は、私はキリスト教を含めた「宗教」というものに対してあまり良くないイメージを持っていたからです。私は信仰を持つことは、自分の譲れない部分を決定的に作ってしまい、人が本来的に持っている自由な心の視野を狭めてしまうものだと理解していました。

そのような理解を持っていた私にとって神学部で宗教対話に関する学びを多くできたことは大きな意義を持つものでした。それらの授業の中で何度も先生方が相互理解のために必要だと言っていたことは、自分の持っている絶対的価値観を一度相対的に見てみようと試みることです。相対的にものを見るために前提となるのは、自分側のことだけでなく相手側を正しく学び、積極的に交わりを持ち、理解しようと努めることです。相手を知らない無知による決めつけるような偏見は、しばしば間違えていているもので、問題を引き起こす最大の原因であるからです。そして相対的にものを見てみようという試みは、自分の心の視野を広くしてみることです。

私は信仰を持つことは心の視野を狭めてしまうものととらえていましたが、信仰を持つ人たちによる心の視野を最大限に広げようとする相互理解に努める姿勢というものを学んでいく中で、価値観は多種多様に存在していて、それはどれも尊重されるべきであり、互いに認め合うということに重要性があることが見えてきました。そして私自身が持っていた、信仰は自分の価値を狭めてしまうものであるという理解こそが、自分の価値観を絶対視して自分の視野を狭くしてしまったものだと気づかされました。

偏見を捨て、理解のために他者と積極的に交わりを持とうと努めようとする姿勢は、私が神学部という場所で学んで得られた貴重な財産であると思います。私が物事を考える際にこの考え方が生きていることは、私が他者との交わりをする中で心の視野を広げてくれて、様々な価値観を与えてもらえるのです。(2009年 6月 『神学部報』より抜粋)