第38回教職セミナー「対話と宣教~テゼ共同体の取り組み」

[ 編集者:神学部・神学研究科       2006年6月5日    更新  ]

報告・講演・発題要旨

2001年の教職セミナーは、ブラザー・ギランをテゼ共同体より招き、今日の宣教における霊性の重要性を学びましたが、講演と会場のロケーションが相俟って、霊的に養われる集まりとなりました。今回のセミナーが実現するためには、通訳の労を執ってくださった、テゼ共同体と関わりの深い打樋啓史氏(本学社会学部宗教主事)、また会場となった共生庵主宰の荒川純太郎氏のご配慮とご協力がありました。このお二人の同窓の働きが大きな推進力となったことも忘れることはできません。

・講演と講師
     「交わり(コミュニオン)からくる希望」
          ブラザー・ギラン(テゼ共同体)
          通訳:打樋啓史氏(本学社会学部専任講師・宗教主事)

・発 題 荒川純太郎氏(共生庵主宰)
・日 時 2001年8月29日(木)~30日(金)
・会 場 共生庵
・ 主 催 関西学院大学神学部
後 援 関西学院大学神学部後援会

講演「交わり(コミュニオン)からくる希望」

ブラザー・ギラン(テゼ共同体)

 この共生庵を開放してくださった荒川先生に感謝します。この場所の単純素朴さは、テゼの雰囲気やスピリットに通じるものがありますし、ここは大変美しいです。
  皆さんと共にこのセミナーに集まったのは、大きな希望を分かち合うためです。そのテーマにある「交わり」という言葉は、「一致」よりも包括的な概念だと思います。すべてを包み込むような大きな広がりを持った言葉です。
  テゼでは、二六ケ国 からの異なる文化や人種のブラザーたちが共に暮らしています。このブラザーたちはキリスト教の様々な教派の出身です。日々、さまざまな違いのある人々が共に暮らすことを通し、希望があるということが確かにみえてきます。「交わり」というのは宝のようなものです。握りしめて所有しようとすると失ってしまいますが、握りしめるのではなく、手を広げる時にその宝を受けることができるのです。そのために皆さんはここに来られたのだと思います。希望と「交わり」を分かち合うために。このセミナーでは「交わり」を話したり聞いたりするだけではなく、共にそれを体験したいと思います。

何かを待ち望む心

 「交わり」は美しい言葉です。しかし、私たちが日常生活のすべてにおいて、この「交わり」を生きているかというと、必ずしもそうではありません。それは同時に、私たちが本当の「交わり」を待ち望んでいる、ということでもあります。若者たちとの対話においても、私たちは「交わり」を課題としますが、その中で最も大切なことは、若者たちが内に抱いている「何かを待ち望む心」を尊重することです。若者たち一人一人が、そして私たちもまた、自分が本当に満たされる、何かが完成するその日のことを待ち望んで生きています。
 この中で、牧師である方もそうでない方も、教会に関わる仕事を始めるにあたって、それぞれにとても深い憧れや、「待ち望む心」があったはずです。そこからすべてが始まったのだと思います。牧会の仕事を始めたばかりの方も、もう四〇年やってきたという方も、共通しているのは、やはり「待ち望む心」を持って生きているということです。私たちの内には燃える炎のようなものがあるのです。それぞれ困難を覚えることがあると思います。例えば、教会は、自分が期待していたような所ではなかったという失望感を味わうことがあるかもしれません。また渇きを覚えて、何かを求めるということがあるでしょう。しかし、それは表面的な渇きではなく、実はそれを深めると、神への憧れ、神への情熱であるといえないでしょうか。私たちは神のことば、福音ケを伝えようとしてしていますが、それは言葉だけで伝えられるものではなく、私たち自身の存在や生き方、内側から湧き出てくるものによって伝えられるのです。たくさんの仕事が山積している忙しい日々、仕事に追われる中で、本当に神の福音、神の愛を伝えていきたいという情熱をどうすれば維持し続けることができるのか。灰になってしまうことなく、内なる炎をどのようにして燃やし続けることができるのか。そのための方法やマニュアルがあるわけではありません。しかし、神は本当に灰からでも炎をおこされる方なのです。

困難の中に希望を見いだす

 テゼの「交わり」は、一九四〇年に始まりました。それは第2次世界大戦の最中で、ヨーロッパが分断され、人々はお互い憎み合い、殺し合っていた時代でした。その中で、テゼの創始者であるブラザー・ロジェの問いは、「どのようにして私たちは希望を分かち合い、伝えていくことができるのであろうか」ということでした。そして彼は、少なくともキリスト者が和解することができたら、平和への道を開いていく小さな一歩となるに違いないと考えたのです。
  「交わり」という言葉は仲のいい人たちと楽しく過ごすという意味ではありません。「交わり」は、この世の様々な苦しみや、困難の中にある人々と希望を分かち合うこと抜きにしてはあり得ないのです。「交わり」は、言い換えれば「赦し」です。
  ブラザー・ロジェがその当時始めたことは、異なる背景を持った人々が一緒に暮らしていく中で、周りの世界に希望を示すということでした。テゼという村は第二次世界大戦時にフランスを二分していた境界線の近くにあるのですが、一方はナチスに占領されていました。テゼの村を通って占領下にいる人が逃れようとしました。その中でも特にブラザー・ロジェはユダヤ人の難民たちを迎え入れ、かくまいました。戦後、彼は、ドイツ人の捕虜兵を迎え入れました。テゼのブラザーは、様々なところから逃れてくる人々を受け入れつつ、集まってきた人たちと一日三回共に祈る生活をしました。そして共同の祈りが苦しみの中にいる人々に希望を与える源になっていったのです。当初からテゼの召命には、一方で「内なる命(inner life)」、他方で「人間の連帯(human solidarity)」がありました。このふたつの次元がひとつになること、それが今もテゼの目指す生き方の中心にあります。
 テゼといえば、短い歌の繰り返しや、ろうそくなどを思い浮かべられるかもしれません。しかし、それらは、単に歌を楽しむ、雰囲気を楽しむためだけのものではありません。むしろ、それらは困難にある人と連帯するための手段なのです。テゼでは「美」(beauty)が大きな位置を占めています。問題があまりにも大きく絶望的で、それを解決する手段はないと思えるような状況では、自分が麻痺してしまってなにもできないのです。そのような状況の中で「美」(beauty)が私たちを前進させるきっかけになります。祈りの美しさ、礼拝の美しさ、自然の美しさが、行きづまった中で、自分にも何かできるのだという勇気を生むのです。典礼や礼拝の美しさはまさに連帯のためのものだと思います。なぜなら神の言葉を聞いて、その美しさを通して励まされることにより、私たちは連帯し、行動することができるからです。

宣教の出発点

 ブラザー・ロジェはよく、「私たちの人生は譬えのようなものだ」と言います。イエスは、福音書の中でしばしば譬え話で人々に福音を語られました。私たちの人生そのもの、生き方そのものが、譬えとなり物語になっていく。私たちの人生が、交わりや一致、そして平和を示す譬えになっていく。この地上にはあまりにもたくさんの分裂や困難が横たわっています。そのような中で、和解について語ることはたやすくありませんが、譬えを通して何かを伝えることはできるはずです。そのために私たちの単純素朴な体験が重要です。素朴な生き方を通して、福音・和解のメッセージを伝えていくことが大切なのです。
  テゼのブラザーたちの生活はまさに単純素朴そのものです。一日三回共に祈り、自分たちの生活の糧を得るために働いて、そして訪問者たちを迎え入れる、それだけです。しかし私たちは歌って、祈っているだけではありません。私たちは行動しています。「内なる命(inner life)」と「人間の連帯(human solidarity)」このふたつの次元をひとつのものとして生きようと私たちは模索しています。つまり、一方で祈りや黙想(内なる命)ということ、他方で交わりと行動(人間の連帯)ということです。
 皆さんもそれぞれに行動しておられると思います。例えば社会の問題に関わる中で、或いは教会の活動の中で、しばしば壁にぶつかって、障害物に道を妨げられることがあります。そんな時、自分の内側で憤りや、苦々しさを感じます。どうしていいのか、一体どこに進んでいったらいいのか、わからなくなることがあるかもしれません。私たちが大切にしている静かな祈りというものは、自分の内なる平和を取り戻すための手段です。自分が過ちを犯した時、自責の念に悩まされることがあります。しかし、弟子たちの話を見てみると、彼らもやはりイエスを裏切ったということによって、自分たちを責め、罪の意識に苦しんでいたのですが、復活によってそれに打ち勝ち、勇気を出して歩き始めたのです。それと同じようなことを私たちは祈りの中で体験します。祈りや沈黙を通して、内なる回心、内なる復活を体験するのだといえます。そこがまさに私たちの宣教が始まる出発点になるのです。

 「宣教とは何か」を考える上で、ルカによる福音書の最初の部分と、使徒言行録の最初の部分を読み比べてみると、大きな手がかりが得られます。聖霊の力が女(マリア)の上に、また使徒たちの上に働いたことから始まっているのです。その神の力に触れた時に彼らは何をしたのでしょう。賛美をしたのです。つまり宣教は感謝の気持ち、賛美の心から始まっているのです。その意味では、最初の宣教者たちとはクリスマス物語の羊飼いたちだと思います。羊飼いたちはイエスをおがみに「出かけた」のです。他方で、マリアはそのことを「思いめぐらしていた」とあります。宣教にはその両方が必要なのです。
 神の神秘をよく黙想して、一番本質的なことに心を集中して思いをめぐらし、そして行動するということです。危険なのは、あまりにも多くの活動に翻弄されて、何のために活動しているのか、その意味を忘れてしまうことです。大切なことは、すべての活動の源がどこにあるのかということなのです。そしてそれはキリストのうちにあり、そのことを心に留め、行動することが大切なのです。

(要約:『神学部報』編集委員会)

発題「新たな宣教の切り口を求めて 」

荒川純太郎(共生庵主宰)

 「農」と「自然」に触れ、そこから学びつつ「人間性の回復」をはかる場とそのためのプログラムの提供を!と願って、ここ広島県中山間地域に移り住んで4年目に入っている。私は生活費を何とかするために、「知的日雇い労働」をするかたわら,今のところ連れ合いの稼ぎで養われている。従って2人でフルに共生庵での働きに打ち込める態勢ではないため、いろいろな制約を自ら設けざるをえない。それでも必要に迫られて手がけることで結構忙しい思いをしている。あまり早くから自分たちの思いを絞り込まず、成り行きに任せながら神様が示して下さるであろう方向を模索しているところである。
  そんな中、今夏関学神学部教職セミナーを共生庵を会場にお引き受けする栄誉を与えられた。充分な受け入れが出来たかどうかこころもとないが、私たちは限りない励ましを受けることが出来、誰よりも深く感謝している。今回のテーマであった「テゼ共同体」をめぐる学びには、多くの示唆を与えられた。特にここ共生庵の自然豊かな里山環境を再評価し、そのすばらしさを生かして魂の癒しの場とすることに大いなる励ましを与えられた。これは私たちが新しい宣教の切り口として模索してきた事への「しかり」であった。この事が改めて確認させられたことに大変感謝している。
  ゲーテいわく「人は自然から遠ざかるほど病気が近づいてくる」と。自然の中で神の恵みをあらたに実感し、神を讃美し、そのために何よりも「黙想」を大切にすることが、癒しに必要不可欠のものではないかと、講師のブラザー・ギランから教えられた。
  先日、森林ボランティアグループの協力を得て、共生庵の裏山の整備をした。一周30分あまりの散策道が出来た。共生庵の前に展望される美しい里山風景とは異なる雑木林のただ中に身を置くと、何ともいえないやすらぎを感じ、神の懐にいるような思いに至ることが出来る。豊かな自然を残しながら適正な整備を進めながらここを「黙想の森」にと構想を練っている。
  今秋の共生庵農園では、お米の収穫は昨年の倍があたえられた。素人の私たちが、一トンをこえる新米を前にした時、「私たちが作った」なんて思いは吹っ飛び、「しかし、成長させてくださったのは神です」という事実に打ちのめされる。畏敬や畏怖を実感する場が、様々なかたちで宣教に求められている事を思う。教会のおかれている現場で、新たな宣教の切り口を模索する時、是非想起してみてほしいことは「農」と「自然」である。
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