2015.07.24.
教員リレーエッセイ:港とわたし/Jeffrey Mensendiek 准教授

港とわたし

 「パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン」で見るような宝箱(英語ではトランクと呼ぶ)が私の部屋にドーンと置いてある。これは私が51年前に初めて来日したときに一緒に船で太平洋を渡ってきたものだ。横浜港に入港した私たち家族は、父の仕事の関係で仙台へ向かった。父は東北学院大学でキリスト教学科教授を28年務めた。
今、私は六甲アイランドに住んでいる。毎日通勤途中に橋の上から神戸港を眺める。貨物船やフェリーが行ったり来たりしている。今も海は世界をつないでいる。貨物船が殆どとなったが、一昔前までは乗客を乗せて行ったり来たりしていた。少し、自分の先祖の歩みに想いを馳せながら、港とわたしについてつづってみたい。
 メンセンディーク(Mensendiek)という名前はオランダ北部フリースランド地方のもの。Mensenはドイツ語のMenschenと同じ、「人間」という意味。Diekとは「土手」のこと。先祖は500年前にオランダからドイツ北部に移り住んだ。ビーレフェルトという街の近くにBethel Epileptic Mission(注)という施設がある。この施設は精神疾患をはじめ、様々な知的障害をもつ人たちを支えるもの。私の祖先の中にはそこでディーコン(執事)として働いていた人もいる。一度だけべテルを訪ねたことがある。古い教会には私の祖先の署名が記された結婚記録が残っていた。電話帳を開くとメンセンディークの名字が複数並んでいた。いつか自分の子供たちをベテルに連れて行きたいと思う。
 父の祖父、カールが大西洋を渡ったのは1890年。オランダの港で密航しようとしたときに見つかってしまい、ガードマンを殺して乗り込んだという言い伝えが残っている。そのころのドイツ移民の多くはニューオーリンズ港からミシシッピー川を北上し、セントルイスという街に定着した。カールがセントルイスに到着したとき手元には35セントしかなかった。最初は苦労して生活を安定させ、やっとの思いで妻のアミリアをドイツから迎えた。アミリアはバルチモア港に入港したが、カールはバルチモアまで迎えに行くお金がなかったので、アミリアは一人でセントルイスまでたどり着いた。
 私の父、ウイリアムが生まれたのは1925年。中西部、ミシシッピー川沿いの町クインシーで育った。トム・ソーヤの冒険で知られるハンニバル村の隣町だ。父の父(リチャード)はクインシーの大きな教会の牧師だった。牧師館にはよく宣教師が泊まりに来ていた。父は若いころから宣教師にあこがれ、いつか自分も宣教師になって広い世界に旅立ちたいと願っていた。そのチャンスが訪れたのが1948年。短期宣教師として3年間東北学院高校で働くことになった。当時の日本は貧しかった。父は学校で英語を教えながら、アメリカから届く救援物資を配った。戦後間もないころの日本との出会いは父の人生を大きく変えた。帰国し、結婚し、更なる勉強を重ね、私たち家族をつれて再来日を果たしたのは1964のことだった。
 港とわたし。今までいくつもの港が私の祖先を受け入れてきた。このトランクを見ているとその歴史に対する想像力が掻き立てられる。私も移民の末裔なのである。
皆さんはどうですか?皆さんの「港とわたし」のストーリーを一度聞いてみたいと思う。


注: 「べテル障碍者ミッション」は1867年にドイツで始められたプロテスタント系福祉施設。フレデリック・フォン・ボーデルシュヴィンク牧師によって一万人規模を収容する大きな施設となった。息子のフレデリック・ジュニア(第2代院長)は1933年にディトリッヒ・ボンヘッファーと共に「べテル宣言」を発表し、ナチ化するドイツのキリスト教への抵抗姿勢をあらわにした。1940年にヒットラーが全ての知的障碍者をガス室に送る命令を下したとき、フレデリック・ジュニアは「まず、私をガス室に送るが良い。私が自由である限り、べテルにいる人たちに指一本触れさせない。」と抵抗した。現在、べテルはビーレフェルト市の一部となっている。

(J. Mensendiek; 2015年 7月)


51年前初めて来日した時に一緒に海を渡ったトランク(左)、べテルのマザーハウス(右)

トランクとべテル

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