2015.05.07.
教員リレーエッセイ:自分のことがわからない私/加納 和寛 助教

自分のことがわからない私

人間は自分自身のことが一番わかっていない。2014年に関西学院大学神学部に着任して以来、このことを痛感しています。

学生から個人的に進路あるいは人生についての相談を受けることがあります。その際に時折感じるのは「この学生は自分の適性を自覚しているのだろうか?」ということです。つまり、本人の希望する進路や生き方と、私が思うその学生の長所が重ならないのです。「あなたはこういうところが素晴しいから、それを伸ばしてこんな進路を目指したらどうかな?」あるいは「勉強に身が入らないと言うけど、テストなどはとてもよくできているよ。もう少しがんばって勉強したら確実に成果が出るよ」と提案しても、相手は良くてキョトンとするか、時には「先生はわたしのことを何もわかってくれていない。こいつに相談したのは失敗だった」とでも言いたげな曇った顔をされてしまいます。私が良き相談相手になるにはまだまだ時間がかかりそうです。

と、他人のことを少々上から目線で言いましたが、自分のことがわかっていないのは私も同じだったのです。幼い頃からキリスト教会に通っていた私は、関学神学部に着任後、これまで特にお世話になった牧師に「神学部の教員になりました」と挨拶に行ったのですが、返ってきた言葉は「それはよかったね!君は牧師には向いてないけど、勉強は好きみたいだからピッタリじゃないか」というものでした。教員になるまで10年以上、天職と信じて教会の牧師をしてきた私は、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない気分になりました。しかしよく考えてみると、それまでも信頼できる幾人もの先輩牧師に「君は牧師には向いてないよ」と言われたことが何度もあったのです。それにまったく耳を貸さず、ガンコにも私は牧師を続けて来たのでした。それは単純に私が教会が好きであり、教会で働きたかったからです。もちろん仕事ですから面倒なことも多く、たまには牧師を辞めたくなることもありましたが、仕事の内容のほとんどは私にとってやりがいのある楽しいものであり、自分はずっと牧師を続けていくものだと思っていました。

けれどもどういうわけか、牧師をしつつも勉強を続けざるを得ない状況に私はいつも追い込まれました。勉強を止めようとすると、それを止めさせないような状況が生まれ、ありがたいと思いつつも、仕事と勉強の両立のために体も心もヘトヘトになりながら勉強を続けました(詳しくは私の講義をご聴講ください。ときどき余談で自分の体験をお話ししております)。こうして教会で牧師をしながら大学院にも通い続けて博士号を取得し、35歳を過ぎてから家族を日本に残してドイツへ単身留学。ドイツの大学で20歳代の若者に混じってドイツ語に四苦八苦しながら神学を学びました。そして今「宝くじに当たったような運で」(先輩牧師談)関学神学部にお仕えしています。最初から研究者人生一筋で来ておられる先生方に混じって仕事をしていると、自分は研究者としてはずいぶんと遠回りや無駄なことをしながらここまで来たものだなあと感じます。ところが先頃、最も尊敬する神学者の恩師から「君はやっぱり研究者になる運命だったね。着実にそうなるべきコースを歩んでここまで来たからね。自分ではそう思っていないだろうけど」と言われ、心底驚きました。
「人間は自分自身のことが一番わかっていない」と改めて思わされる今日この頃です。
(加納 和寛; 2015年 5月)
 

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