鈴すず木き 慎しん一いち郎ろうで生じるそれ—を理論化することに大きな関心があります。異種混交性には近代の支配的な主体概念に再考を迫る契機が含まれると考えられるからです。主に西インド諸島ジャマイカの文化的な諸実践(音楽、言語、思想など)の考察を通じて、この関心を掘り下げてきました。 1980年代の東京で大学生をしている時に文化人類学に出会い、院生時代には、英国統治下のジャマイカで生まれたある社会宗教運動の研究に携わりました。信仰のみならず芸術や生活実践の領域にまで及ぶこの独特な運動は、「合理的」な社会運動と「非合理的」な千年王国運動といった区別からは捉えがたい性格を有しています。この運動の救済観や社会変化のヴィジョンをめぐり、自らのフィールドワークをふまえて考察を行ったのが博論です。 調査と留学のために滞在していた1990年代のジャマイカでは、現地の大学の研究者を通じて、英米発のカルチュラル・スタディーズの動向にも接することができました。特に英国発のそれは、西インド諸島を含む(旧)植民地出身者が帝国の中心で直面した現実への、批判的介入の試みでもあり、そこではまた、ジャマイカ発の表現文化が間大西洋的なより広い関係性の中に置かれて熱心に論じられてもいたので、当時この上ない刺激を受けたものです。カルチュラル・スタディーズとのこの遭遇経験が、音楽について人種や民族や国民といった枠を自明視せずに論究を進めることを、後押ししていってくれました。 日本の大学に勤めていると、非メインストリームに位置するニッチな音楽ジャンルのファンであることから出発した研究者、という自分自身の立場性を、日々痛感せざるをえません。こうした経験もあって、自分の研究を、一般に「趣味」と呼ばれる範疇におけるファンや情熱家(エンスージアスト)の諸実践についての研究—特にそうした実践をめぐる広義の政治についての研究—へと接続させていくことの積極的な意義を、常に探っているところです。また冒頭に述べた異種混交性への関心についていえば、これまでの自分の研究は専ら文化の混成化をその射程の中心に据えてきましたが、近年の存在論的転回をふまえて、人間と非人間とのハイブリッド化についても探究を行っていくという可能性には、大いに興奮をかき立てられているところです。 毎回のゼミの授業は、文献講読というオーソドックスな形式に沿っ38て行うのが主です。テクストに真摯に向き合いかつテクストの内部と外部のさまざまな水準を行き来するような「読み」の実践をシェアできるよう、常日頃から意識しています。授業ではその他に、修論研究や博論研究の中間報告とその内容をめぐるディスカッション(一次資料の綿密な検討も含む)や、投稿論文や口頭発表原稿の草稿をめぐるディスカッションなどの機会を設けることも、度々あります。青土社鈴木慎一郎,2003,(杉浦勉・東琢磨との共編著)『シンコペーション—ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン鈴木慎一郎,2008,「“レペゼン”の諸相—レゲエにおける場所への愛着と誇りをめぐって」鶴本花織・西山哲郎・松宮朝(共編著)『トヨティズムを生きる—名古屋発カルチュラル・スタディーズ』せりか書房鈴木慎一郎,2009,「混交への回帰/脱出—音楽を通して黒人ディアスポラのルーツを再想像する」中村和恵(編)『世界中のアフリカへ行こう—〈旅する文化〉のハンドブック』岩波書店鈴木慎一郎,2010,「ダブ—南国ジャマイカの人工的音響」石橋純(編)『中南米の音楽—歌・踊り・祝宴を生きる人々』東京堂書店鈴木慎一郎,2011,「「わたしたちみんな,いくらかはダイアレクトを話すのですから」—ルイーズ・ベネットのお喋りのなかに像を結ぶ〈民衆〉」真島一郎(編)『20世紀〈アフリカ〉の個体形成—南北アメリカ・カリブ・アフリカからの問い』平凡社鈴木慎一郎,2013,「“ホワッツ・ハプニング・ブラザー”,あるいは過去からの/他所からの声と音」,『立命館言語文化研究』24(2) 研究・教育内容 異種混交性(ハイブリディティー)—特に非対称的な力関係の中 代表的な著書・論文等鈴木慎一郎,2000,(単著)『レゲエ・トレイン—ディアスポラの響き』専門分野・キーワード⃝ポピュラー音楽研究⃝カルチュラル・スタディーズ⃝文化人類学教授
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