田た中なか 耕こう一いちらに政治学科に在籍しながらなぜかゼミでは社会学を学ぶという変則的なスタイル、よく言えば多元的な視点を同時に持ちながら、悪く言えばどこか落ち着きのない不安定さのなかで社会学の勉強をスタートしたせいか、一つの枠組みのなかで思考しながら、そこに留まることができずに、すぐにその枠組みから逃れていこうとする習性が染み付いています。実はそれはとても個人的な習性(たしかに小さい頃から「飽きっぽい性格」とよく言われました)のような気もしますし、あるいは大学院で勉強していた1980年代に流行した(「リゾーム」とか「スキゾ」といったスローガンに象徴される)「ニュー・アカデミズム」の影響のような気もするのですが、それと同時に、そもそも社会学というディシプリン(学問分野)のもつ独特のダイナミズム、もともと残余的あるいは周縁的な分野であるといういわば「弱み」を裏返しにして武器(「強み」)にしてしまうような、軽やかで大胆なダイナミズムでもあるような気がします。 研究の基本的なスタイルは、学説研究(これまで主に取り扱ってきたのは、タルコット・パーソンズやニクラス・ルーマン、エスノメソドロジー・会話分析や社会的構築主義、そしてミシェル・フーコーなどです)をベースとして、〈社会的なもの〉という社会学的探求の核となるものを見通しながら、理論的な考察を行うというオーソドックスなスタイルです。「規範的なもの」を〈社会的なもの〉と同一視する古典的な見方(デュルケーム、パーソンズなど)から始まり、それに対する批判的な流れ(レイベリング理論や現象学的社会学など)、そして〈社会的なもの〉を「相互行為(コミュニケーション)的なもの」と同一視する見方とその限界(エスノメソドロジー・会話分析、ルーマン、社会的構築主義など)へと考察を進めてきました。その後はさらに、フーコーの議論にもとづいて、〈社会的なもの〉の歴史的な生成・誕生と、それと深く関わる「規律的な力」および「調整・管理的な力」の問題、そしていわゆる「統治性Governmentarity」の問題へと戦線を拡大しています。 そんなわけで、現在とくに関心をもっているのは、(フーコーの意味での)「自由主義(の統治)」の問題です。とくに、今日鋭く対立しているかにみえる「新自由主義(の統治)」と「福祉国家(的な統治)」という二つの異なる統治は、実はその対立の背後に、通底する特性(「調整・管理的な力」の増大)をもっているのではないか、そしてここに、グローバル資本主義や情報化・ネットワーク化によって特徴づけられる現代社会のあり方を考えていくときの最も重要なポイントがあるのではないか、などということを考えています。 大学院のゼミで最も重要なことは、さまざまな社会学理論のポイントを、〈社会的なもの〉の探求という観点から、しっかり理解するとともに身につけること、そしてそれによって大学院生各自の研究関心を再構築し、理論的なアイデアを含んだ明確な問題設定と仮説を定式化して、それにそった研究プログラムの見通しを立てること、にあります。したがってゼミでは、そのための文献の講読とブレインストーミング、ディスカッションを中心として指導を行います。社会学的思考の軽やかで大胆なダイナミズムをぜひ身につけてください。田中耕一・荻野昌弘編, 2007, 『社会調査と権力─〈社会的なもの〉田中耕一, 2007, 「科学的言説と権力─身体と権力の奇妙な関係と田中耕一, 2006, 「構築主義論争の帰結─記述主義の呪縛を解田中耕一, 2004, 「認知主義の陥穽─言説分析と会話分析」『関田中耕一, 2003, 「再帰性の神話─社会的構築主義の可能性と不田中耕一, 2002, 「規範と心─実践的行為の構造」『関西学院大統治性』関西学院大学出版会.の危機と社会学』世界思想社.科学的言説」田中・荻野編『社会調査と権力』,183-205.くために」中河伸俊・平英美編『新版・構築主義の社会学』世界思想社, 214-38.西学院大学社会学部紀要』96: 121-36.可能性」『関西学院大学社会学部紀要』93: 93-108.学社会学部紀要』91: 71-85.17 研究・教育内容 もともと大学時代に、法学部でありながら政治学科に在籍し、さ 代表的な著書・論文等田中耕一, 2014, 『〈社会的なもの〉の運命─実践・言説・規律・専門分野・キーワード⃝社会学理論⃝現代社会論⃝社会学史教授
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