奥おく村むら 隆たかしと制約の源泉である。この「他者の原的な両義性」(見田宗介)をまえにして、私たちはどのように他者とコミュニケーションを行い、〈私〉であり続け、社会を形作っているのか。この問いから派生する自己と他者の関係性、コミュニケーション、アイデンティティをめぐる問題系を社会学的に検討することが、第一の研究テーマである。たとえば「思いやりとかげぐちの体系としての社会―存在証明の形式社会学」(1994年、『他者といる技法』所収)ではレインやゴフマンの論考をもとに他者といる技法としての「思いやり」と「かげぐち」のかかわりを論じ、「社会を剥ぎ取られた地点―「無媒介性の夢」をめぐるノート」(2002年、『社会はどこにあるか』所収)ではルソー、ゴフマン、アーレントなどの議論を往復しながら「無媒介」なコミュニケーションの両義性を論じた。『反コミュニケーション』(2013年)はコミュニケーションについてのこうした検討を、ルソーからベイトソンにいたる何人かの論者との架空対話という形で展開したものである。 これと並行して考えてきた第二の研究テーマは、社会学とはいかなる学問か、他の社会科学と異なる社会学固有の可能性とはなにかを歴史的文脈を踏まえて検討することであり、いわば社会学の学問言語をいちどまっさらにして考え直し、使えるものに鍛え直すという作業である。社会学の通史を再構成する『社会学の歴史Ⅰ―社会という謎の系譜』(2014年、Ⅱは今後刊行予定)では、社会学者は社会のどのような位置でどんな〈謎〉を発見し、それと格闘してきたか、という視点からこれを試みた。この作業をする過程で、「「社会の科学」と「社会の理想」―あるいは、ふたりのデュルケーム」(2011年)、「距離のユートピア―ジンメルにおける悲劇と遊戯」(2012年)、「亡命者たちの社会学―ラザースフェルドのアメリカ/アドルノのアメリカ」(2013年)といった論考も生まれている(いずれも『社会はどこにあるか』所収)。 ここ数年は、2012年秋のロバート・ベラーとの出会い(『宗教とグローバル市民社会』を参照)などをきっかけに「日本の社会学」がなにを問い、どのような成果をあげてきたかを振り返る作業を進めており、編著『作田啓一 vs. 見田宗介』(2016年)はひとつの中間報告である。また、作田、見田に加え、ロバート・ベラー、吉田民人、大村英昭、井上俊の社会学について検討した論考を集めた『反転と残余―〈社会の他者〉としての社会学者』を2018年9月に上梓した。 大学院ゼミ・研究指導は、院生各自の問題意識を〈研究〉として展開するためのヒントを与え合う場面である。それぞれが自分の〈問い〉を発見し(どんなテーマであれ)、深化させることが大学院での探求の軸であり、院生は問題意識といういわば自前のエンジンによって前に進んでいく。ただ自分がどこから出発し、どこに向かおうとしているかわからなくなることがしばしばであり、これを整理して、自分の研究の優れている点はどこで、当座どの方向に進めばいいのかを明確にするナビゲーションが必要となる。ゼミでの報告とディスカッション、個別指導は互いに補助線を提示し合い、各自の発想の核をクリアにする機会と考えてほしい。奥村隆, 1998,『他者といる技法―コミュニケーションの社会学』日本評論社奥村隆, 2001,『エリアス・暴力への問い』勁草書房長谷正人・奥村隆編, 2009,『コミュニケーションの社会学』有斐閣奥村隆, 2013,『反コミュニケーション』弘文堂ロバート・N・ベラー・島薗進・奥村隆編, 2014,『宗教とグローバル市民社会―ロバート・ベラーとの対話』岩波書店奥村隆, 2014,『社会学の歴史Ⅰ―社会という謎の系譜』有斐閣奥村隆編, 2016,『作田啓一 vs. 見田宗介』弘文堂奥村隆, 2017,『社会はどこにあるか―根源性の社会学』ミネルヴァ書房奥村隆編, 2018, 『はじまりの社会学―問いつづけるためのレッスン』ミネルヴァ書房奥村隆, 2018,『反転と残余―〈社会の他者〉としての社会学者』弘文堂13 研究・教育内容 〈他者〉とは私にとって歓びと感動の源泉であるとともに、不幸 代表的な著書・論文等奥村隆編, 1997,『社会学になにができるか』八千代出版専門分野・キーワード⃝コミュニケーションの社会学/ 自己と他者の社会学⃝社会学理論⃝文化の社会学教授
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