商科(高等学部 1912-1921)(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

商科(高等学部 1912-1921)

(高等学部 1912-1921)

 関西学院が本格的な高等教育機関として、専門学校令による高等学部を開校したのは1912年4月で、商科と文科の2学科からなっていた。
商科開設の時代背景には、当時の国際貿易港神戸の飛躍的な発展があげられよう。
1898年には輸出入取扱高で横浜港を抜いて日本一となった。
輸出品としてマッチや繊維製品、輸入品にはインド綿花などがあげられる。
たとえば、三井物産船舶部は、1904年にアジアの海運市場の中心が上海・香港から神戸に移行しつつある状況から内外の国内拠点を門司から神戸に移転した。
人口は1898年の21万人から1920年には62万人、35年には91万人に達した。
前半の伸び率は国内都市のトップであった。
文部省は第二高等商業学校を国内商業の拠点大阪ではなく国際貿易港として将来性が期待できる神戸を推したと思われる。
専門学校令が出たのは03年で、この年、神戸大学の前身である神戸高等商業学校が開設され、それから遅れること9年であった。

 4年制の商科は、アメリカのリベラル・アーツを土台に、神戸高商を参考に、中学校卒業者の甲部と、商業学校卒業者の乙部に、主として1年次カリキュラムを分けて、甲部には商業算術、簿記、商業通論、経済通論、法学通論を、乙部には国漢文、代数幾何、物理化学、博物学を履修させた。
募集定員60名。
英語科目の配分が多いうえに、外国人教師による英語授業もかなりの数にのぼった。
初年度の文科応募者は3名であったのに対して、商科は39名を受け入れた。
順調なすべりだしであった。
開校時は施設も乏しく教員も不足していたため学生の不満が高まったが、C.J.L.ベーツ高等学部長主催の昼食会で今後の抱負を聞き、学生の不満は沈静したというエピソードが残されている。
創設時に着任した商科出身教員は東京高商出身の木村禎橘ただ一人であった。
在任わずか8年であった彼が商業教育者として学生に与えた影響は少なくない。
東京高商および同基督教青年会のネットワークを通じて、就職などに貢献した働きは大きい。
その後順次、学部専用校舎や今日も学生寮としてその名を残している啓明寮の建設や新しい教員の採用などによって体制が整えられ、明治末から大正にかけて拡大していく日本経済における企業人養成に向けて、順調に発展していく。
4学年がそろった1915年には在校生の総数は165名を数え、16年に12名の第1回卒業生を送り出した。

 キリスト教主義の高等教育機関として、週2時間の聖書の授業、毎日のチャペル時間、日曜日の特別礼拝、寮での祈祷会など、規模が拡大する関西学院における宗教活動の土台も据えられ、学院の特色が形作られていった。
自主的な学生活動も活発になされ、スポーツや文化活動が開花し、学術活動としても商科学生の機関誌『商光』が1915年に創刊された。

 商科の学生や教員の増加につれて、文科と商科は教授会も別組織とする必要に迫られ、1921年4月から、文科と商科をそれぞれ独立した文学部と高等商業学部とし、神学部とともに3学部体制に入った。
その直前の20年度商科の卒業生は118名に達し、中学部の卒業生を超える勢いで、入学者も阪神間出身者が多数を占めたこともあり、関西学院が地元の優れた教育機関として認知されていった。

【参照】Ⅰ 331,349【文献】『日本帝国人口静態表』1898;『関西学院高等学部文科・商科要覧』1919;『大正9年国勢調査報告全国の部第一巻』1929;『三井船舶八十年史』1980;『世の光たれ!:関西学院高等学部商科開設100周年記念誌』2014