大学昇格運動(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

大学昇格運動

 1909年、明治学院総理井深梶之助は演説「基督教教育の前途」の中で、教派を超えてキリスト教指導者を養成する大学の創立を唱え、明治末にはこの問題が日本のキリスト教界の課題の一つとなっていた。
そのような中、明治学院、東京学院、聖学院はその実現を図ろうとしたが、青山学院はその動きに反対し、立教学院や同志社は単独の大学設立の意向を持っていた。
その結果、このキリスト教主義大学の創立計画は頓挫したが、18年の大学令の公布により、再びこの問題の解決は現実味を帯びてきた。

 関西学院でも1919年1月には高等学部の学生が大学昇格切望の決議をし、4月には理事会に対して大学昇格嘆願書を提出、同月の理事会では教派を超えた大学設立の計画が実現しない場合には、関西学院に2学部制の大学設置を支持するとの報告がなされ、5月の理事会では高等学部を大学令による大学に昇格させる決議をし、調査を本格化させることとなった。
6月の理事会で検討結果が報告され、その中で財団法人の組織化と宗教教育に課題があるとされたが、その内容はアメリカ・南メソヂスト監督教会とカナダ・メソヂスト教会に報告された。
その結果、キリスト教主義教育の維持を条件として、その設置を両教会とも認め、前者はさらに商科大学に加えて文科大学の開設を求めた。
20年2月の理事会で、両教会から任命された「連合大学委員会」は、①関西学院に神学部、中学部、3年制高等商業学部、大学予科、大学(文科・商科)を設置すること、②予科を1922年に開設すること、③政府への供託金60万円を母教会の連合教育委員会に要求することなどの点を報告した。

 しかし、本国の連合教育委員会は1922年1月になって第1次世界大戦後の不況からくる財政的理由から25年以降の開設を勧告した。
この勧告を受け、理事会内の大学委員会は、①大学昇格を25年に行うこと、②大学認可申請権を理事会に付与すること、③60万円の供託金を支給することを求めた。
しかし、理事会は、この経費を母教会に依存する限り、大学昇格の実現性がないことを理解し、資金の自己調達の道を探らざるを得なかった。
その手段が原田の森キャンパスの売却と上ケ原の土地購入であった。
28年2月にその正式契約が締結された。

 1929年2月から始まった上ケ原移転によって、大学昇格運動は最終局面を迎えた。
5月に理事会に設けられた大学委員会は、32年に開設案を提出し、12月の理事会は同案を承認し、連合教育委員会に大学開設の早期実現を促した。
一方、学生は数度にわたり学生総会を開催し、早期実現を理事会に要請した。
30年4月の理事会は、神学部、中学部に加えて、32年に高等商業学部(3年制)開設および予科(3年制)開校、35年に大学(文学部・商学部)開校の新設を承認した。
同案を支持した学生は、5月の総会で、最終決定権をもつ連合教育委員会への英文の決議文を送付することとなった。
さらに、12月16日の臨時学生総会でC.J.L.ベーツ院長のカナダ、アメリカへの派遣を決議し、17日の理事会もその派遣を決定、ベーツ院長は12月29日、カナダへと旅立った。
翌年1月17日にアトランティック・シティで開催された会議で、連合教育委員会はその大学昇格案を承認した。
ここに関西学院の大学昇格運動は大学設立という形で決着した。

 予科の開校は予定どおり1932年4月に、大学学部は、予科の修業年限を3年制から2年制にしたため34年に設置された。
慶應義塾大学、早稲田大学、同志社大学などから遅れること12年であった。

【参照】Ⅰ 436【文献】「関西学院新聞」1931.1.20;『学制百年史』1972