大学令(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

大学令

 1886年に公布された帝国大学令は、初代文部大臣森有礼を中心に東京大学関係者の意向を組み入れる形で制定され、研究を担当する大学院と教育を担当する分科大学とから構成され、大学全体に勅任の総長を、法科・医科・工科・文科・理科(後に農科)各分科大学に学長・教頭・教授・助教授が置かれた。
この勅令により東京大学は帝国大学となった。
93年の文相井上毅の高等教育制度の改革により、講座制・分科大学教授会が規定された。
1903年、京都帝国大学設置以降、この勅令は各帝国大学に適用された。
帝国大学令以降、法的には官立の帝国大学のみが大学であり、帝国大学に準ずる内容・設備をもった高等教育機関は「大学」と呼ばれながらも大学ではなく、専門学校令(1903)以降も法的には専門学校として位置付けられていた。

 このような状況を打破するために1918年、大学令が制定され、官立の単科大学や公立・私立の単科大学が公認されるようになった。
また、学部に研究科を置き、総合大学ではその研究科を総合して大学院と称した。
この大学令により公立は都道府県市立に、私立は財団法人に限定し、その設立廃止は勅裁を得て文部大臣に認可されることになった。
大学の修業年限は3年(医学部4年)、入学資格は大学予科・高等学校高等科修了者とし、私立大学教員の採用は文部大臣の認可が必要であった。
この大学令公布により帝国大学令も改正され、分科大学が学部となり、教員が分科大学所属から大学所属へと変更された。
戦後、帝国大学令は国立学校設置法の制定により廃止され、大学令は学校教育法の施行により廃止された。

 大学令により1920年には慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、日本大学、中央大学、国学院大学、同志社大学、21年には東京慈恵医科大学、22年には龍谷大学、大谷大学、専修大学、立教大学、立命館大学、関西大学などの大学設置が認可された。
このような他の専門学校の大学昇格に刺激を受けた関西学院でも教職員・学生・卒業生による大学昇格運動が展開され、32年に大学として関西学院大学の設置が認可された。

【参照】Ⅰ 428【文献】『学制百年史』1972;『国史大辞典』1988