中学部(旧制 1915-1947)(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

中学部(旧制 1915-1947)

(旧制 1915-1947)

 関西学院は普通学部普通科を中学校令に準拠した教育機関として整備してきたが、1913年これを「中学部」に改称することを決議した。
この申請は15年2月に文部省に認可され、「私立関西学院普通科」は「私立関西学院中学部」と改称された。
同年6月の西川玉之助中学部長の辞任後、歴代院長が中学部長を兼任したが、16年に野々村戒三が専任の部長に就任。
その翌年、中学部校舎が失火によって全焼し、以後2年余りバラック生活を余儀なくされる。
19年に新校舎が竣工。
20年2月に野々村部長が辞任し、4月に田中義弘が後任に就く。

 学院校地の上ケ原への移転に伴い、中学部も1929年3月に移転を完了。
その翌年1月に田中部長が急逝し、真鍋由郎教頭が部長に就任した。
新校地移転後、各電鉄の路線整備などの影響もあり入学志願者数は年々増加し、生徒定員数は850名から1,000名に変更され、38年度には5学年全体の生徒数は1,014名に達した。

 1938年3月に真鍋部長が定年退職し、4月に田中貞が後任に就いた。
翌年、第2次世界大戦が勃発。
昭和に入ってから中学部は日本の軍国主義の影響を強く受けていたが、それはさらに強化され、中学部教育は軍人教官による軍事色濃厚なものとなった。
その間もキリスト教の伝統は守り続けられ、軍人たちも礼拝に反対することはなかったものの、田中貞部長は軍国主義の影響で42年に辞任。
翌年、沓澤吉太郎が後任部長に就任した。

 戦時下の錬成教育の一環として勤労作業を行うため、1941年有馬郡道場村に中学部の修養道場が設けられたが、設備・立地面で利用が困難となり、43年には宝塚北部の長尾山字桜小場に学院の修養道場が設けられ、新入学生の宿泊訓練などに利用された。
44年3月、中学部校舎は海軍省に供出され、西宮海軍航空隊の演習場となる。
この時期には、中学部3年修了で予科練に入隊する者が多く、残った者についても勤労動員が徹底され、2年生以上はほとんど授業ができなくなった。
44年には空襲が激しくなり、上ケ原キャンパスの一部や、教職員、生徒たちの家も多く被爆、被災した。
こうして戦争末期を迎えた45年3月、沓澤部長が退職した後を畑歓三が引き継いだ。
動員中の工場は戦災を受けたため、4月から中学部全校生徒は西宮市剣谷国有林へ動員、ここで終戦を迎えた。

 終戦直後の1945年8月、戦時教育令の廃止および勤労動員の解除に続いて、文部省から学校授業再開の通達が出された。
中学部でも授業が再開されたが、校舎設備の復旧が追いつかず、全員の教室復帰は11月であった。
その後、戦後の民主主義の理念に基づく新学制に対応して、47年4月には旧制中学部教頭矢内正一を部長とする新制中学部が、翌48年には大学予科長であった河辺満甕を初代部長とする新制高等部が開設されキリスト教主義に基づく人間形成を主眼とした新しい教育が開始されたのである。

【参照】Ⅰ 414-422,509-514,622-623,632;Ⅱ 15,82-83【文献】『関西学院高中部百年史』1989