関西学院教習所(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

関西学院教習所

 第2次世界大戦後の1945年9月5日に、文部省は次官通達(発専120号)「陸海軍諸学校出身者及在学者等ノ編入学ニ関スル件」を通達し、陸海軍諸学校出身者、在学者などの旧制高等学校、大学予科、専門学校への編入を認めた。
しかし、GHQは希望者が特定の学校に集中するのを避けるため、学生定員の1割のみの収容を認めた。
その結果、その年の9月の入学試験では多数が不合格となり、46年4月の入学試験を再受験せざるを得なくなった。

 その受験準備をするための学校として、文部省は、中部軍管区の中から関西学院大学を指定し、「退職軍人大学進学教習所」「退職軍人教習所」「関西学院教習所」と呼ばれる学校を設立させた。
総理に神崎驥一、所長に今田恵、教授に寿岳文章、増野正衛、志賀勝、平賀耕吉、小宮孝、片山正直ら10名、職員に田中俊二が就いた。
学生は101名で、出身校は神戸第一中学校、姫路中学校、市岡中学校、天王寺中学校など近畿の旧制中学校だけでなく、小樽中学校、青森中学校、広島中学校などもあった。
46年4月には、旧制の東京帝国大学、京都帝国大学、大阪帝国大学、東京商科大学、大阪商科大学、神戸商科大学などや関西学院大学に入学した。

【文献】米田満『児玉国之進先生卒寿記念 関西学院とともに』1986;酒井淳「語るべき青春 関西学院退職軍人教習所」『偕行』1996;柚木学「新関学風土記」『関学ジャーナル』(149)1997.5.30;『文部行政資料』(1)復刻版,1997