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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

賀川豊彦

かがわとよひこ

1888.7.10~1960.4.23

理事、キリスト教社会運動家、伝道者。
神戸市に生まれる。
徳島中学校在学中に徳島教会でC.A.ローガンから英語を学び、1904年、H.W.マイアースから受洗。
05年、明治学院高等部神学予科に進み、07年に卒業、新設の神戸神学校に入学し11年に卒業した。
在学中から神戸の貧民窟に住み、伝道を開始、貧民救済に尽くす。
14年、プリンストン大学、プリンストン神学校に留学し、17年に帰国。
19年には鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となり、労働組合運動を指導。
また19年、日本基督教会で牧師の資格を取る。
20年刊行の『死線を越えて』はベストセラーとなる。
20年、神戸購買組合を結成し、「一人が万人のために、万人が一人のために」の標語を作り、消費組合の先駆けとなった。
21年の神戸の川崎・三菱造船所争議を指導、23年の関東大震災の時には上京し、被災者救済に努めた。

 賀川は青山学院と関西学院の共同編集である『神学評論』に投稿したり、戦前・戦後を通じて関西学院の求めに応じてキリスト教の講話をしばしば行った。
その影響は大きく、例えば1955年の学事報告が伝えるように、彼のキリスト教講話を機会にキリスト教を学びたいという学生が増え、受洗者が増えた。
さらに55年から58年まで学院理事であった賀川は57年には農学部設置案を今田恵理事長に提案するなど、関西学院の総合学園化に一つの指針を提供し、彼のアイデアにより関西学院の分校として47年に小豆島農芸学園が設置された。
このような賀川と関西学院との深い関係から、大学では89年と91年に共同研究「賀川豊彦研究」(代表者田中敏弘)が行われた。

【参照】Ⅰ 384,397;Ⅱ 280,313【文献】『賀川豊彦全集』1962-64;『関西学院高中部百年史』1989

賀川豊彦

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