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関西学院事典(増補改訂版)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]

農村センター

 1956年に関西学院に再赴任したS.M.ヒルバーンと58年に赴任したL.B.グレアムの両宣教師は、関西学院に農学部を設立し、関西学院大学を総合大学へと拡充させるとともに、それまで遅れていた日本の農村部へのキリスト教伝道を推進したいと考えた。
この構想が、学院が新しく購入した千刈の土地利用計画と結びつき、農村センター設立につながった。

 千刈一帯の土地と学院とのつながりは、1954年に三田市香下の羽束山東麓に約4万坪(約13万2,000㎡)の土地を購入し、翌55年に千刈キャンプサイトを開所したことに始まる。
学院は、60年までに千刈周辺の土地約25万坪(約82万5,000㎡)を取得した。
しかし、新しく取得した土地は利用計画がはっきりせず、60年に2回にわたり土地売却者の一部から、売却した土地を買い戻したいという申し出がなされた。
土地利用計画作成のため、60年11月、理事会は今田恵理事長を委員長とする16名の委員で構成される新千刈土地施設研究委員会を設置し、土地利用の具体案の検討を開始した。
61年6月の理事会で、ゴルフ場案と農村センター案の2案に絞られ、農村センター案はそのとき設けられた堀経夫学長を委員長とする農村センター専門委員会で検討が続けられた。
学外者で委員に任命された川瀬勇は、日本の草地農業樹立者の一人で、農学博士、クリスチャンであった。
川瀬は当時農林省農水産技術草地開発委員、兵庫県農業審議委員および新農村建設顧問を務めており、農村センター設立に寄与するところが大きかった。

 農村センターの設立は、1962年5月の農村センター設置準備委員会のもとに、キャンプ場西側にある三田市香下の土地、キャンプ場の北側、宝塚市大畑の土地などを用いて準備が進められた。
農村センターは、農村教育実習場と呼ばれることになった。
メソヂスト教会テキサス・ノースウエスト・カンファレンスより、63年度から66年3月末までに毎年1万ドルずつ、合計3万ドルを得ることになり、これと関西学院からの300万円の貸付金とで農村教育実習場の必要経費が賄われた。

 1964年に、カナダ・アルバータ州のメソヂスト教会員からホルスタインの子牛20頭が寄付され、農村教育実習場は順調な発展を始めた。
66年に、ヒルバーンが定年退職、グレアムはトロント大学教授に就任のためカナダに帰国し、新たにJ.A.ジョイスが場長となった。
67年には、約1万7,500坪(約5万7,750㎡)の用地に成牛24頭、育成牛23頭、計47頭を有するようになり、年間産乳料は9万7,353㎏に達した。
財政的には、アメリカ・メソヂスト教会からの援助金やアジア財団からの寄付金もあり、農村教育実習場は独立経営ができるようになった。

 しかし、1970年代に入り、飼料や人件費の高騰、さらには乳価の低迷などにより、農村教育実習場の運営は厳しい状況下に置かれることになる。
さらに、実習場が採用していたルーズバーン方式は不経済で、衛生面でも問題が多く、よりきめ細かな単飼養のストールバーン方式に切り替える必要があった。
日本では急速な工業化の進展により農村の労働力は工業に吸収され、酪農による農村の立て直しを図り、農村伝道者を育成するという開設時の目的は実情に合わなくなった。
大学紛争後、関西学院の学外施設について再検討が行われる中で、農村教育実習場を取り巻く厳しい状況を踏まえて、農村教育実習場は73年3月末をもって廃止された。

【参照】Ⅱ 277
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