本多庸一(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室 2014年9月28日 更新 ]
関西学院事典

本多庸一

ほんだよういつ

嘉永元<1848>.12.13~1912.3.26

本多庸一

本多庸一

理事、日本メソヂスト教会初代監督。
弘前に生まれる。
1870年、藩命により横浜におもむき、英学を修めるためバラ塾に入ってキリスト教に出会い、72年、J.H.バラから受洗。
74年、帰郷して東奥義塾塾頭となり、郷里においてJ.イングと相携えて伝道に挺身し、75年、弘前公会を設立した。
79年、函館で執事の按手を受け、84年、長老の按手を受け、86年、仙台教会に牧師として就任、翌年、東京英和学校校主兼教授となる。
88年、アメリカ・ドゥルー神学校に学び、90年に帰国。
東京英和学校校長(のち青山学院院長)に就任して17年間、同校の経営ならびに教学の責任を負う。
97年、日本福音同盟会会長に選任され、1903年成立の日本基督教青年会同盟の初代委員長に挙げられた。
06年には日本メソヂスト3派合同交渉のためアメリカの母教会を訪問して了解を得、07年に合同を実現し、合同総会で初代監督に選出されて青山学院院長を辞した。

 1910年、アメリカ・南メソヂスト監督教会とカナダ・メソヂスト教会との合同経営に入るにあたって関西学院の新理事として選出され、学院の新たな展開に貢献した。
その後も各地への伝道旅行を続け、12年の政府主唱の三教会同にはキリスト教を代表して演説して好評を博した。
メソヂスト西部年会の指導中病を得て、長崎で客死した。

【参照】Ⅰ 254,267【文献】岡田哲蔵『本多庸一伝』1996