芝川又右衛門(関西学院事典)

[ 編集者:学院史編纂室       2014年9月28日 更新  ]

関西学院事典

芝川又右衛門

しばかわまたえもん

1853.10.~1938.6.


関西学院上ケ原移転当時の大地主。
芝川家は祖父芝川新助が1837年ごろ、大坂・伏見町に新しく唐物商(欧米品輸入商)「百足屋」を興した後、新助の女婿又平(初代又右衛門、隠居後・又平)の時代に大坂の河口地帯の千島、千歳、加賀屋の三新田の土地経営に転じた。
又平の息子又次郎が、75年に家督を相続し、又右衛門の名を襲名、86年に唐物商をたたむが、その後不動産業を主軸に家業を守った。
1912年不動産経営会社の千島土地が設立された。

 又右衛門は1896年に上ケ原に果樹園「甲東園」開設。
この果樹園は、甲州ブドウや天津桃の栽培に適した。
現在の甲東園駅からキャンパスまでの道路は芝川が果樹園のために私設したものである。
甲東園が開けるには学校と病院と助産師が不可欠と考え、大阪の回生病院の分院(現、山内病院)と大阪の産婦人科医院として定評のあった緒方病院から助産師(石黒とめ、1979受勲)を東側駅前に誘致した。
甲東園駅は、阪神急行電鉄小林一三の要請に応じて主として駅東側1万坪と軌道用地そして5,000円を芝川が寄付する条件で新設された。
1929年、関西学院は上ケ原校地に移転。
この移転に先立ち、又右衛門は小林一三に上ケ原の土地を売却。
自己所有地以外の土地の入手を取りまとめ、上ケ原のキャンパス用地確保に大きな役割を果たした。
関西学院が移転した年、又右衛門の喜寿(77歳)にちなんで77本のクスノキの若木が学内に植えられた。

 又右衛門は、1911年、甲東園に自らの別邸を建設している。
隠居後、甲東園を常住の地とし、和館と洋館を増築した。
武田伍一設計、竹中工務店施工の「芝川又右衛門邸」(別邸・洋館)は阪神・淡路大震災で被害を受けたため解体、その後明治村に移築され一般公開されている。

 1923年に家督を相続した又四郎(2代目又右衛門次男、1883-1970)は、アメリカの視察旅行で目にしたシアトルのワシントン大学のように、関西学院の大学周辺には一切柵を立てず、外に開かれた大学にしてほしいとC.J.L.ベーツ院長に要望したとも言われている。
又四郎は、父が開いた甲東園を見て栽培より加工へ目を向け34年大日本果汁(現・ニッカウイスキー)を設立した。

【文献】『京阪神急行電鉄五十年史』1959;芝川又四郎『小さな歩み』1969;日本助産師会兵庫県支部編『創立70周年記念誌』2003;『千島土地株式会社設立100周年記念誌』2012