関学カプセル

[ 編集者:広報室       2014年6月25日 更新  ]

時計台前のクリスマスツリー

~光と祈りにつつまれて~

243号

 

 毎年、関西学院では多彩なクリスマス行事が行われる。昨年も各キャンパスでクリスマスツリーが点灯され、クリスマスの夜まで空を照らした。
 西宮上ケ原キャンパスでは、12月3日に点灯式が行われた。中央芝生を埋めた約1200人の参加者は、ルース・M・グルーベル院長のグリーティングに耳を傾け、合図とともにクリスマスツリーが点灯されると中央芝生じゅうから大きな歓声が上がった。
 時計台前のヒマラヤ杉にはイルミネーションが飾られ、学院の年末の風物詩として、学生のみならず近隣の方々にも長年親しまれてきた。点灯を始める当日を礼拝で祈ろうと、点灯式が初めて行われたのは、今から20 年前の1994年のことである。
 これからもずっと、時計台前のクリスマスツリーの光は、アドベント(待降節)に入った冬の夜を照らし、クリスマスを待ち望む多くの人々の心も照らし続けていくだろう。

関西学院とオリンピック

男女約30人のオリンピアン

242号

中央芝生でランニングに励む平松純子氏

中央芝生でランニングに励む平松純子氏

 2020年の夏季オリンピック・パラリンピックが東京で開催されることが決定し、今後はさらなる日本選手の強化が叫ばれていくことであろう。
 これまでに関西学院関係者でオリンピックに出場したのは男女合わせて約30人。その中には複数回連続でオリンピックに出場した選手も存在する。
 飛込競技の馬淵(旧姓・津谷)鹿乃子氏は第16回メルボルン大会、第17回ローマ大会、第18回東京大会と3大会連続で夏のオリンピックに出場した。
 冬のオリンピックに2大会連続出場したのはフィギュアスケート競技の平松(旧姓・上野)純子氏と大西(旧姓・山下)一美氏。平松氏は第8回スコーバレー大会と第9回インスブルック大会に、大西氏は第10回グルノーブル大会と第11回札幌大会に出場した。
 残念ながら80年代以降長らく、関学関係者からオリンピアンは出ていない。再びその雄姿を東京で見ることができるとしたらそれほど素晴らしいことはない。

神学部北側のハクモクレン

~追悼の想いを込めて~

241号

神学部北側のハクモクレン

神学部北側のハクモクレン

 神学部の北側でハクモクレンの木々が夏の強い日射しの下、生命力あふれる姿で枝を伸ばしている。このハクモクレンには、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で亡くなった関西学院関係者への追悼の想いが込められていることをご存じだろうか。
 阪神・淡路大震災では関学大の在学生15人と教職員8人の、計23人の尊い命が失われた。それから8年経った2003年、被災地に緑を取り戻そうと植樹活動を展開していた阪神・淡路震災復興支援10年委員会「ひょうごグリーンネットワーク」から関西学院関係犠牲者と同数のハクモクレン23本が関西学院に寄贈され、神学部北側に植樹された。
 ハクモクレンの木々は四季折々に美しい姿を見せてくれる。震災が起こった1月17日を迎えるころには柔らかな毛に覆われた冬芽がつき、3月下旬から4月にかけて、春の到来を告げるかのように白く、香り豊かな花を咲かせる。夏にはしっかりと葉を茂らせ、秋には葉が黄色く色づき、輝く。
 23人の尊い命は今もハクモクレンの中にしっかりと生きているように思える。

浜口みづら

~関学初の女子学生~

239号

↑右端が浜口みづら

↑右端が浜口みづら

 1943(昭和18)年、旧制の関西学院大学に初めて女子学生が入学した。法文学部心理学科に入学した浜口みづらである。
 1921(大正10)年生まれの浜口はウヰルミナ女学校(現・大阪女学院)から津田英学塾(現・津田塾大学)に進学。英語を学んでいたが、戦時下の国策で早期卒業をさせられることとなった。
 1942(昭和17)年に帰阪し、関西学院大学の入学規則書を入手。出願者の性別に関する記載は規則書内にはなかったが、事前の問い合わせなしに願書を提出し、一蹴されるのは不用意と考え、法文学部長の今田恵に人を介し面会。自らの学びたいという意志を伝えた。
 今田から「教授会にかけて決定する」という回答をもらい、1年間の聴講生としての期間を経て、受験を認められ合格。晴れて関学初の女子学生となった。当時の男子学生たちからは「落下傘部隊が来た!」と言われたという。
 1946(同21)年に卒業した後は教員となり、大阪府立盲学校教諭、大阪府教育委員会勤務を経て、1981(同56)年に亡くなるまで大阪女学院短期大学英語科で教鞭をとった。その間に結婚・出産も経験。働く女性としての顔とともに、妻として、母親としての顔も持っていた。

外国人住宅

~W.M.ヴォーリズの名建築~

238号

外国人住宅

外国人住宅

 関西学院創立時、原田の森キャンパスには宣教師のために住宅が整えられた。その姿は写真で確認できるのみであるが、W.M.ヴォーリズの設計により、第4代院長C.J.L.ベーツの住宅などが建てられた。
 それぞれの住宅はアメリカ・コロニアルスタイルで、地下と屋根裏部分を持ち、1階には玄関ホール、居間、食堂、台所、書斎、パーラー(応接室)、2階には寝室、サンルームが設けられ、キャンパスが上ケ原に移転する直前には14棟を数えた。
 上ケ原の地にキャンパスが移転された後にも10棟がキャンパス北辺、仁川寄りの位置に建築された。当初は関西学院ではなく、宣教師の派遣母体であるミッション・ボードの所有、管理下にあったが、1960年代以後に徐々にそれらが学院に移され、現在は外国人住宅と呼んでいる。設計はこちらもヴォーリズによるもので、キャンパス全体と同じく、スパニッシュ・ミッションスタイルである。
 現在は9棟が残っており、西宮上ケ原キャンパスの建築群とともに経済産業省選定「近代化産業遺産群」に指定されている。

新月池

~その植生と生物たち~

237号

新月池

新月池

 西宮上ケ原キャンパスの新月池は、水面積およそ2,000㎡。その水は六甲山頂近く、石の宝殿の南側に源流を持ち、甲山の北側を通って、仁川渓谷大井滝、上ヶ原用水路トンネルを経て流れ込んでいる。池から流れ出た水は農業用水として使用されており、現在は門戸農会が水利権を持ち使用している。
 池の中には真鯉や亀、沼えびなどが生息しており、水面にはさまざまな野鳥が羽根を休めている様子が見られる。その中には池に棲む小魚を食べている鳥もおり、小さな池とはいえ、しっかりと生態系が形成されているようである。
 池の岸に自生する植物にはハス、スイレン、コウホネ、キショウブ、カキツバタなどがあり、周辺にはキャンパスの景観を崩さないように選定された木々が植えられ、季節ごとに美しい姿を見せてくれる。
 初夏には水辺に美しい花々が咲く中、可愛らしいカルガモの親子がのんびりと過ごしてい姿が心をなごませてくれる。

ランバス像と吉岡美国像

~大熊氏廣、最晩年の作~

236号

ランバス像と吉岡美国像

ランバス像と吉岡美国像

 関西学院を象徴する建築物である時計台の1階に、4体の銅像が静かに並んでいる。そのうち、関西学院初代院長・ランバス像、第二代院長・吉岡美国像は、近代日本彫刻の草創期を代表する作家、大熊氏廣の最晩年の作品である。
 大熊氏廣は1856(安政3)年、現在の埼玉県川口市(旧鳩ヶ谷市)に生まれ、日本初の本格的な西洋美術の教育の場となった工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人彫刻家、ラグーザに学んだ。その後、ヨーロッパに渡り、フランスやイタリアで学び帰国した後、生涯多くの肖像彫刻を制作し、代表的な作品には「大村益次郎銅像」(靖国神社)、「有栖川宮熾仁親王銅像」(有栖川宮記念公園)が挙げられる。
 時計台のランバス像は高さ78・5㌢で1927年に完成。吉岡像は高さ80・6㌢で翌年の28年に完成した。2つの像は向かい合わせに置かれており、ランバス像の視線が志高くやや上方に向けられているのに対し、吉岡像は優しく下方に注がれているように見える。
 2つの彫刻作品は格調高い雰囲気を持つとともに、キャンパスで学ぶ学生たちを静かに見守っているように見える。

旧海軍地下壕

~司令部の施設か~

235号

旧海軍地下壕

旧海軍地下壕

 太平洋戦争中の1944年2月から敗戦までの間、海軍予備学生の教育の場として、関西学院の敷地の多くが軍や関係工場に貸与された。旧制中学部校舎(現・総合体育館横のグラウンド)、大学予科校舎(現・高中部本部棟付近)、グラウンド(現・G号館周辺)などは海軍省に、中央講堂、高等商業部校舎(現・経済学部)、法文学部校舎(現・文学部)などは川西航空機に貸与された。その際、グラウンドの地下に掘られたのが旧海軍地下壕。88年、高等部校舎の新築工事の際に発見された。
 大きさは南北に長さ25㍍、高さ約2㍍、幅1・5㍍ほど。東西に3本のトンネルが交差しており、壁には「桜といかり」の海軍の紋章が彫られていた。
 天井には配線の跡もあり、電話付きの司令室や秘密文書庫として利用されていたようだ。当時、西宮航空隊の先任分隊長だった人物の証言では「いざというときに天皇陛下の『御真影』や重要書類を運ぶために掘ったと記憶している」とされている。
 安全上の問題もあり、現在はこの地下壕の見学はできないが、学院では歴史的な重要性から今後も保存していく。

2つの破片

~暗い時代へのレジスタンス~

234号

2つの破片

2つの破片

 1937(昭和12)年に日中戦争が勃発、関西学院にも暗く重い戦争の影が迫り、41(同16)年の春までにはベーツ第4代院長をはじめ、学院に在職していた宣教師全員が帰国する事態となった。
 戦渦がますます激しくなり、時計台は黒く迷彩が施され、ベーツ院長の提言により時計台に掲げられたスクールモットー「MASTERY FOR SERVICE」の石製エンブレムは、敵国の言語を使用しているという理由で軍の命令により取り壊された。
 エンブレムの破片二つを持ち去った学生がいた。当時商経学部の学生だった高田十郎氏である。高田氏は破片を自らの洗濯物に巻き込み、リュックサックに入れ、実家がある鳥取へと向かう汽車に乗り込んだ。暗い時代に対する密かな抵抗からの行動だったようだ。
 戦後44年たった89(平成元)年、エンブレムの破片は、高田氏のご子息から関西学院に返還された。学問への弾圧を許さない決意の品として、二つの破片は学院史編纂室に保管され、今も力強くメッセージを伝え続けている。

スクールカラー

233号

スクールカラー

スクールカラー

 大学のアイデンティティを示すスクールカラーとして、関西学院大学ではK・G・ブルーと呼ばれる「紺」が制定されている。
 明治期、普通学部(のちの旧制中学部)では、教員たちは各自の出身校のスクールカラー、例えば、ヴァンダビルト大学の黄と黒や、イエール大学の青を関西学院のスクールカラーにしたいと主張した。最終的に1905年、M・V・ガーナー普通学部教授とS・H・ウェンライト普通学部長の協議によって熱愛を表す「紅」と純潔を表す「白」とがスクールカラーとして定められ、野球部のユニフォームなどにも採用された。
 その後、1928年4月に専門部学生会は「蒼空」を象徴する紺青(もしくは紫紺)を校色と定め、専門部として独自のスクールカラーを持つこととなった。
 この伝統は中学部・高等部、大学においてそれぞれに継承されており、例えば中学部・高等部の野球部のユニフォームには「えんじ」が使用され、来年度から共学化する中学部の女子の制服にも「えんじ」のスカーフが採用されている。
 また、大学では全てにおいてK・G・ブルーが使用されており、校旗や体育会のユニフォーム、関学グッズにも用いられている。(参考 : 関西学院事典)

校歌「空の翼」

232号

新校歌発表会の様子

新校歌発表会の様子

 関西学院の校歌「空の翼」は大学昇格を記念して1933年に制作。北原白秋が作詞し、同窓の山田耕筰が作曲した。
 それまでは英語の歌詞で書かれた「Old Kwansei」が校歌として歌われていたが、それは米国・プリンストン大学のカレッジソングの歌詞と旋律を一部改編したものだった。そこで、学生会は上ケ原にふさわしい日本語の校歌を作ろうと企画。学生会長の菅沼安人は日本の代表的な作曲家で同窓の山田耕筰を訪ね、作曲を依頼し、山田の推薦で詩人の北原白秋が作詞を引き受けた。
 33年の初夏、山田耕筰と北原白秋が関西学院を訪れ、中央講堂では学生が盛大な拍手で二人を迎えた。この日は空が澄みわたり、初めて訪れた白秋は、緑の甲山を背景にした校舎の美しさに魅了されたという。
 新校歌「空の翼」は9月に完成。新校歌の発表会では山田耕筰自らがタクトを振り、全学生で大合唱し、完成を祝った。山田耕筰手書きの楽譜は、いまも関西学院に残されている。(参考 : 関西学院事典)

時計台のチャイム

時計台のチャイム

 関西学院大学西宮上ケ原キャンパスで日に3回、時計台から流れるチャイムは、卒業生で恒和化学工業の社長である岩崎善雄氏からの寄金120万円をもとに1977年に設置された。
 設置当初は午前8時半に讃美歌24番「父のかみよ、夜は去りて、あらたなる朝となりぬ」のメロディーが、授業前の学生に届いた。
 チャペルアワーの始まる10時10分には讃美歌9番「ちからの主を、ほめたたえまつれ、わが心よ、今しも目ざめて…」が軽やかに流れる。そして午後4時15分には、讃美歌39番「日くれて、四方はくらくわがたまはいとさびし…」の旋律が響いていた。
 現在は、午前8時50分に「21-211(I-30)朝風静かに吹きて」、午前10時30分にチャペルに祈りを捧げる讃美歌「21-495(I-310)静けき祈りの」、そして午後6時20分に夜の讃美歌「21-220(I-51)日かげしずかに」が流れる。
 神戸三田キャンパスでも日に3回、同時刻にチャイムが流れる。西宮聖和キャンパスでは午前10時10分のチャペルアワーにチャイムが一度流れている。