日野原 重明さん スペシャルインタビュー 

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[ 編集者:広報室       2014年9月28日 更新  ]

PROFILE
1911年生まれ。29年関西学院中学部(旧制中学)卒業。37年京都帝国大学(現/京都大学)医学部卒業。同大学院(医学)修了。41年聖路加国際病院に内科医として赴任。92年同病院院長就任。現在同名誉院長・理事長。

胸に刻まれた関西学院の精神は今も実践しています

 

関西学院中学部(旧制中学)出身で、102歳の今も現役医師として活躍される日野原重明・聖路加国際病院理事長に、中学部時代のエピソードや関西学院への思いなどを伺いました。


Q 原田の森時代のキャンパスについて教えてください。
私の父は神戸にあるメソヂスト系の教会(現/神戸栄光教会)の牧師でした。関西学院の神学部の講師もしており、非常に自由な雰囲気のある関西学院中学部を薦めてくれ、1924年に入学しました。入学者は約250人いました。
 現在の阪急電車は三宮から西へも乗り入れていますが、当時は関西学院があった場所(現/王子公園付近)が終点でした。校門を入ると右手に緑の茂った原田の森があり、そこには瀟洒なハミルトン館がありました。その先に立派な講堂があり、毎日2時間目にそこで礼拝がありました。講堂のステージの上には、“Mastery for Service”というスクールモットーが掲げてありました。
 中学部の校舎は講堂の先にある4階建ての赤れんがの建物で、私はそこで5年間勉強しました。中学部を卒業する翌年に原田の森から上ケ原に移転することが決まりました。内村鑑三氏の弟
である内村順也先生(英語教諭)が、私を上ケ原に連れて行ってくれました。新しいキャンパスとなる地を見ながら、自身の学生生活を振り返ったことを思い出します。


Q 先生との思い出はありますか。
 関西学院高等部を卒業したばかりで赴任された矢内正一先生が、僕たち生徒に一番人気がありましたね。当時は中学部の英作文の先生でした。みんなは矢内先生とは呼ばず「正ちゃん」と呼んでいました。先生はその後、中学部長、院長を経て理事長になられました。
 私は中学部4年生の時に将来医者になりたいと思うようになり、京大医学部に入るため京都の第三高等学校を受験することに決めました。そのころは塾もなかったので、必死に自分で勉強したわけですが、矢内先生は私の卒業後、後輩たちに対して「日野原君が勉強して第三高等学校に入ったように、君たちも勉強しないと駄目だぞ」と話されていたそうです。そんなふうに私のことを思ってくれていることがとてもうれしかったです。
 矢内先生は私たちが中学部を卒業した後も、私たちのクラスのメンバーが旅行する時にはどんなに忙しくても、それが立山のような遠くの場所であっても参加してくださいました。私に多くの影響を与えてくれた先生でした。
 もう一人、思い出深いのがオグバーン先生です。米国ノースカロライナにあるトリニティカレッジを卒業後、宣教師として来日し、関西学院の中学部の先生になられました。偶然にも先生と私の父はトリニティカレッジの同級生でした。先生は日本語が全然できなかったので、授業は全て英語。私たちに簡単な英語を書かせたり、詩を朗読させたりして、耳から学ぶ英語を教えてくれました。キャンパスにあった職員用の宿舎に住んでおられ、その宿舎に私たち生徒を招待して、お手製のアップルパイを食べさせてくれました。このように生徒と教師の間が非常に近く、和やかな関係であったのが関西学院の特長だったと感じています。

原田の森キャンパス

原田の森キャンパス



医師として第一線で働いてこられて、関西学院で学んだどのようなことが一番生かされているとお考えですか。
 関西学院の聖書の時間に学んだ「善きサマリヤ人」の話が非常に印象に残っています。この話は、強盗に襲われ身ぐるみ剥がされて倒れていた人を祭司や神殿に関わる人々が助けず通り過ぎた一方で、サマリヤ人だけがその人を助けたというものです。そしてみんなもこのサマリヤ人のようになりなさいと教えられました。
 自分が医者になってあらためて思うのは、どんなに貧しくても、あるいは豊かでも、どんな国籍でも、人間として平等に医療を提供することが必要だということです。関西学院で学んだ「善きサマリヤ人」の話を何度も思い起こしてきました。今、いろいろな患者さんを診ているわけですが、人種を超えて、年齢を超えて、病む人のために生涯をささげるのが私の務めであると考えています。そういう意識、そういうスピリットが、中学部の間に私に植え付けられたのではないかと思っています。


Q これからの関西学院に期待することは。
 グローバルに活躍する人材を育て続けてほしいと願います。
 私が通っていた当時の英語教育はヒアリングをとても大切にしていました。外国人の先生方から生の英語を聞けたことは、卒業してからも非常に役立ちました。そのおかげで米国に留学した時も、他の日本人留学生に比べて英語のレクチャーや会話に苦労しませんでした。
 現在の日本は米国に留学する若者が減っています。その理由の一つは語学ができないからだと思います。それに比べ、韓国や中国、ベトナムなどのアジア諸国の人々は、自国で熱心に英語を勉強しているので、多くの若者が渡米しています。
 日本の今の大学教育は英語教育が不十分であるために、若者が留学しなくなったのではないでしょうか。これからは誰もが母国語と英語を共通語として使用できるよう、国を挙げて取り組まなくてはならないと考えます。
 その点、関西学院には古くからグローバルな土壌があります。バイリンガルを育成する教育システムも整っている。この強みを大切に発展させていかなければならないと思います。現在も多くの留学生や外国人教員が在籍しています。異なる国籍の学生が同じ寮に宿泊したり、机を並べて勉強したり、一緒にクラブ活動をするということは非常に意義のあることです。
 関西学院を出た人は、国籍を超えて世界一になるということを私は学んできましたから、後輩の皆さんにも、やはり世界市民になってほしいと強く希望します。


Q 日野原さんにとって関西学院とは。
 医者になって、聖路加国際病院に赴任して、74年になります。今なお働いて102歳を超えました。長寿に恵まれただけ、関西学院の思い出を話すのには私が第一人者じゃないかと自分自身、非常に誇らしく思っているわけです。
 関西学院とはと聞かれると、やはりベーツ先生が提唱したスクールモットー“Mastery for Service”が浮かびます。この言葉こそが関西学院の精神であり、いつも私の中にあります。その精神の下で、現在も務めています。 また、ランバス先生の存在も大きいですね。学生時代、ランバス先生は宣教師だとは知っていても医者であったことは知りませんでした。私自身が医者であるだけに、ランバス先生が医者でありながら世界中で宣教活動や教育に従事したというのは素晴らしいなと思います。このように素晴らしい先生方によって支えられてきた関西学院で学べたことに感謝しています。