2015.05.12.
2014年度リサーチコンペ採択者の研究成果報告書を掲載しました。

先端研リサーチコンペ 2014年度採択者による成果報告書

先端研リサーチコンペ2014年度採択者4名より提出された成果報告の概要は、以下の通りである。

戦後開拓を生きる一石垣島『自由移民」の生一

藤井 和子

1.研究計画の進捗状況

研究計画の進捗度 研究計画では、聞き取り調査は、石垣島のみで実施する予定であった。しかし、石垣島だけではなく西表島でも「政府計画開拓民」の入植が行なわれており、また八重山諸島の島から島を手漕ぎの舟で通いながら米作りをした人々もいたため、聞き取り調査の範囲を八重山諸島に拡大し西表島、黒島、鳩間島、竹富島でも現地調査を行った。

3月末時点での研究成果 台風シーズンを避けるため、 1月までは石垣島には行けなかった。戦後開拓民の表現文化の実例を参考にできる可能性があるので、茨城県の開拓地を現地調査した。 1月以後、石垣島、西表島で「政府計画開拓民」の開拓村を10箇所程度まわり、現地調査を行った。村ごとの入植記念碑や公民館など、可視化された開拓にまつわる物質文化を確認した。「政府計画開拓民」の最初の入植地西表島住吉村で宮古島からの入植者から聞き取りを行い開拓40周年記念誌を入手した。一方で、「自由開拓民」による開拓地では、目安になる記念碑もなく、高齢化によって入植を記憶している世代がわずかであり聞き取り調査は難航した。しかし、西表島では「自由開拓民」一世の90歳の女性からライフヒストリーを聞くことができた。この老女は、開拓時代の初期の小屋に今も住み続けている。この小屋は、夫が西表島の実家近くの山から木を切り出して組み立てたもので、いかだに乗せて舟で曳いて浜からひきあげて運んできたものであり、隣には息子たちの鉄骨の住居があっても夫亡き後も一人ですんでいる。これも「自由開拓民」ならではの開拓にまつわる物質文化といえよう。「自由開拓民」は家族単位で集団化しておらず開拓しても「政府計画開拓民」のように土地が配分されず、借地のままであり子や孫の世代に土地が継承できないことがわかった。開拓は、「ユイマール」と呼ばれる協働作業で行われ村はばらばらの寄せ集めの入植者たちが団結していった。生活に追われていたが、ハーリーや農耕馬の浜での競走などを村で 行った。しかし誰一人カメラを持っていなかったため、村の行事も写真1枚すら残っていない。 r自由開拓民」の村では、物質文化が「政府計画開拓民」のように可視化され継承されていないものの、物資もお金もない離島で手に入るものを工夫して創作する生活の工夫が随所に見られた。

今後見込まれる成果 八重山の人口を先住民、「政府計画開拓民」「自由開拓民」の三つに分類し芸能の島ともいわれる地域の表現文化の方法、ジャンルについて比較し八重山の表現文化の全体像を立体的に解明する。

2.発表論文、学会発表

 現在論文は執筆中であり『先端社会研究所紀要』に投稿予定である。また、2015年2月に院生成果発表会で「戦後開拓を生きる一八重山『自由開拓民』の生と表現文化」の口頭発表を行った。
 

地方花柳界の文化資源化―模索と葛藤をめぐって―

谷岡 優子

研究成果(経過)

 日本各地の花柳界は、1970年代以降、客の花柳界離れ、次世代の芸の担い手不足などを理由に衰退状況にある。そして、この状況を克服するべく、花柳界関係者は、花柳界の「文化資源化」や「観光化」という新たな戦略を立てて、花柳界の再編、再活性化を模索しようとしていることが2013年度のリサーチコンペ採択課題による調査で明らかになった。しかし、こうした再編は、必ずしも成功しておらず、そこには、関係者間での衝突、葛藤状態が発生している。
 本課題は、この地方花柳界をめぐる模索と葛藤を、花柳界を探るうえでの重要な論点と考え、秋田市川反の花柳界をフィールドに2015年2月26日~3月5日にかけて現地調査を行ない、花柳界再生への模索と模索により発生する葛藤と人びとの対応のあり方について検討した。その結果、つぎのことが明らかとなった。
 かつて秋田市大町の旭川沿いの繁華街・川反には、料亭・料理屋、芸妓置屋、検番が置かれ、多くの川反芸者が活躍していた。しかし、1990年から官官接待の廃止や交際費の縮小を理由に川反から客足が遠のき、花柳界を支えた料亭・料理屋のほとんどは廃業し、川反の花柳界は衰退した。
 そのようななか、2014年4月1日、川反芸者の文化を再興するとともに、秋田美人をブランド化し、秋田の魅力を県外に発信する「あきた舞妓」の育成・派遣会社「せん」が発足した。
 事業の主役である「あきた舞妓」は、高校卒業資格のある18歳以上の女性を対象に募集を行なった結果、見習い生を経て正社員として採用された3名の女性である。彼女たちは、元・川反芸者の「若勇」に、舞妓としての立ち居振る舞いや「酒の秋田」「秋田音頭」などの踊りの指導を仰ぎ、舞妓としての修練も積むほか、社長の「お座敷文化の単なる再生ではなく、観光資源としてブランド化する」というコンセプトのもと、語学学習や秋田の観光についても学んだうえで、「あきた舞妓」として活躍している。
 しかしながら、現在、株式会社「せん」が進める舞妓育成事業をめぐり、会社と旧来の花柳界関係者間で葛藤が生じている。旧来の川反を知る花柳界関係者は、川反の花柳界が培ってきた芸やしきたりを踏襲した上で活躍する「舞妓」を期待していたが、会社側は「花柳界文化の継承」よりも、「秋田美人の産業化」「秋田の魅力発信」ということに重きを置いており、「あきた舞妓」はあくまでその手段の一つにすぎないと考えている。
 このような意見の相違の結果、2015年3月の時点で、旧来の花柳界と現在の花柳界を繋ぐ存在である元・川反芸者の「若勇」は、あきた舞妓の指導から完全に手を引いており、また、あきた舞妓事業も、他地域の花柳界の展開を参考としながら、旧来の川反の花柳界と別のあり方を模索していることが明らかとなった。

 今回得られた研究成果は、日本民俗学会第67回年会において口頭発表を行なうほか、論文としてまとめ、『関西学院大学先端社会研究所紀要』へ投稿する予定である。
 

ナラティヴとナラティヴの接続に関する社会学的研究-明治時代の投書を事例として-

矢﨑 千華

1.研究計画の進捗度、3月末時点での研究成果、今後見込まれる成果等

 明治時代におけるナラティヴの接続を研究するにあたって、当時の雑誌上の投書を事例とした。とくに、女性雑誌を中心に調査を行った。調査を行う雑誌は、浜崎(2004)の研究を参考に策定した。以下が調査を行った雑誌である。『以良都女』、『婦女雑誌』、『女鑑』、『婦人界』、『ムラサキ』、『明治の婦人』、『婦人之友』、『家庭雑誌』、『家庭之友』、『婦人世界』などを調査した。これらは投書が掲載されていた雑誌であるが、投書者同士でのやりとり(応答)が確認できる『婦人世界』を主な分析対象とした。その他の雑誌における投書のやりとりはいわゆる「文通」をしたいといった内容のものであり、今回の分析対象とはしなかった。
 『婦人世界』における投書のやりとりは特徴的であり、先行する投書に対する応答、またそれに対する応答、と一連の投書が確認できたため、分析対象として選定した。とくに『婦人世界』の投書のやりとりでは、自身の「不幸」についての投書のやりとりがあり、「不幸」を軸としてナラティヴの接続を確認することができた。
 現時点においては、ナラティヴの接続の際には「不幸の比較」が行われること、またナラティヴの終了の際には特定の形式があることが明らかとなってきている。ナラティヴの終了は、「不幸」を受け入れるということが達成される場合に起こる。そして、この「受け入れる」ということの達成がナラティヴの接続の重要な機能であると考えられる。
 この分析から、投書のやりとりというナラティヴとナラティヴの接続は、たんなるつながりではなく、それぞれのナラティヴの意味――「不幸」――を意味を確定させるために必要なものであり、他者と自身との想像上のつながり(Anderson 1983=1997)を生じさせる機能をもつものであると考えている。
 この考察を展開するかたちで現在投稿論文を執筆中である。

【参考文献】
Anderson, B. 1983, 1991 ‘Imagined Communities: Reflection on the Origin and Spread of Nationalism(=1997、白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』NTT出版)。
浜崎広、2004、『女性誌の源流――女の雑誌、かく生まれ、かく競い、かく死せり』出版ニュース社。

2.発表論文、学会発表等

 2014年11月の第87回日本社会学会(於神戸大学)にて口頭発表を行った。夏に行った1度目の調査までの研究成果の中間報告として発表した。タイトルは、「ナラティヴとナラティヴの接続に関する研究――明治時代の「不幸」に関する投書を事例として――」である。
 

戦後・名古屋の都市イメージ作りと名古屋駅における排除―1964年東京オリンピックの際のクリアランスを事例に

加藤 晴美

研究成果(経過)

 本研究は、戦後復興期の名古屋において、名古屋駅が「名古屋の顔」として地域の中で活用されていく過程で、駅の「裏の顔」がどのように扱われ、語られてきたかを見ていく。
 都市においてイメージ=物語が注目される例として、地域おこし・まちおこしといったものが挙げられる。これまでも、地域におけるイメージ作り=物語作りについて分析した研究は数多く見られる。たとえば、①「創造都市」論の系譜が挙げられる。「創造都市」論では、都市の中に既存の文化的な「地域資源」をいかに上手く活用するかといった観点を呈示することで地域おこしの分析に実践的・効用的に一定の貢献を行ってきた。②また、地方都市発の「文化」を対象にしたものが挙げられる。都市―農村の枠組みのように、東京との間で、中央―周縁の関係におかれた地方において、「独自の地方文化」がいかに地方の人々によって作られてきたかを分析してきた。
 これらの研究は、地方で芽生える文化の可能性を呈示することに成功した反面、その「地域/文化」がおおよそ潜在的に存在するという視点(①)や、作り出すことが可能であり、かついかに成功するか/失敗するかといった面(②)を強調するあまり、その「地方の独自性」の内実の機微を十分に検討してきたとは言い難い。本研究では、地域おこし・まちおこしの文脈において、「地域/文化」が当事者の間でいかにして語られたか、「名古屋の顔」が作られる上で、どのような「顔」がいかなる論理を用いて棄却されてきたのか、揺らぎと機微の歴史を見ていく。
また一方で、名古屋における都市イメージを主軸にした研究はなく、また名古屋を事例とした都市研究自体も多いとはいえない。たとえば、名古屋については産業の変化と都市編成の間連を生態学的に分析したものが挙げられるが、マクロな視点に立つもので都市空間の構造とミクロな都市の動態分析との関連については十分には検討されていない。
 本研究では、「産業都市・名古屋」にふさわしい都市空間作りが行われる中で都市の周縁部においてどのような政治過程が起こったか、またその背景について考察することを目的とする。具体的には、名古屋駅の西側で起こった土地の区画整理ならびにクリアランスに着目する。
 戦後間もなくの、駅の西側(駅裏)はバラックが立ち並んでいた。ここは当時問屋街で、闇市から始まって一時期は名古屋の商店主がここに買い付けにやってくる場所だった。その後も市場から商店群が発達していった。ところが、’64年東京オリンピックに際して新幹線用地確保のためにクリアランスが始まる。その際、駅の東側がビルが立ち並び整理された空間を為していたのに対して、西側は未整備で「戦後の雰囲気が残った」空間として対比され、駅西は「名古屋の顔」である駅にふさわしくないものという言い方がなされるようになり、東側=表、西側=裏として認識された。
 クリアランスは突貫工事的に行われ、とりわけ駅のすぐ裏手(新幹線用地にされた場所)に形成されていた韓国・朝鮮系の人が集まる国際マーケットは跡形もなく取り払われた。西側の整備はオリンピック閉幕後も行われ、道路拡張や地下街形成によって地域が大きく動いて行った。
現在の駅西地区の人々に聴き取りを行ったところ、「痛みの伴う歴史」としてクリアランスや区画整理が語られ、記述されていた。それは、語り継がれる大事な歴史であると主張するものの、「歴史化」されたものとして受け止められていた。現在のきれいに整備された駅西地区になるために、ひいては名古屋の発展のためには、「痛みの伴う歴史」もまた必要な歴史であったと認識されていた。産業都市・名古屋の発展史のなかに、排除の歴史が美談の一部として解釈されているように考えられる。
 このような歴史化は現在の文脈に照合して選びとられたものとも考えられる。つまり、リニア新幹線駅開設によってさらに大きく飛躍する名古屋市、名古屋駅と駅西地区という文脈が現在の駅西地区に共有されていることもあるだろう。リニアの駅開設による集客効果や土地売買に伴う利益などに対する期待と共に、開発の歴史も美談に回収されているようだ。