2014.06.30.
2014 年度先端社会研究所リサーチコンペ採択者の研究計画要旨および審査講評

戦後開拓を生きる――石垣島「自由移民」の生

藤井 和子(社会学研究科博士課程後期課程3年)
 沖縄県石垣島の歴史は、琉球王朝時代から第二次大戦後まで、「開拓」(山林・原野に入植し新たに耕地や集落などを形成すること)の連続であったといっても過言ではない。本研究は、同島をフィールドに、開拓者、とりわけ第二次大戦後の「自由移民」と呼ばれる開拓者たちの生のあり方を、「他者」問題と関わらせて検討することを目的とする。
 戦後の石垣島開拓の担い手として一般に知られているのは、琉球政府がさまざまな条件を整えた上で希望者を募集して入植させた「計画移民」である。しかし、それとは別に、「計画移民」以前に、自らの意思で沖縄本島や宮古島などから入植した人々がおり、この人々は行政側からは「自由移民」と称されている。「自由移民」は、先住者や「計画移民」らからは、ある種の「流れ者」的な存在として、「他者」化された存在であり、また学術研究の面でも、「計画移民」についての調査研究は一定の蓄積が見られるものの、「自由移民」については研究が存在していない。 
 「自由移民」は、行政の支援のもとに開拓団を組織して入植した「計画移民」とは異なり、個人入植者である各自が自らの才覚で開拓を生き抜く必要があったため、独自の生のあり方や世界観を生み出している可能性が高い。現地で「他者」化され、学術研究でも光の当てられてこなかった「自由移民」の生について内在的理解を進めることが本研究の目的である。

【講評】

 これまで研究が乏しかった石垣島の「自由移民」について研究するという意図や方向性、さらには計画性については評価できる上、予備調査などすでに得たインフォーマントからの情報により、彼ら独自の生の技法などを論じるという方向性自体は良いと考えられる。ただし、本研究が、これまでの移民研究の動向や理論的枠組の中でどのような意義を持つかについて、より明確に位置づけることが望ましい。この点、そもそも「自由移民」をどのような分析用語に変換するかという作業が、この研究の一般性を考える場合にとくに重要である。とくに、生活者はどこでも工夫するものであるのだから、「自由移民」独自の視点を安易に仮定してはならず、その検証をいかに行うかが研究の成否を決めることになるだろう。

地方花柳界の文化資源化――模索と葛藤をめぐって

谷岡 優子(社会学研究科博士課程前期課程2年)
 日本各地には、前近代、もしくは近代以降に形成・展開されてきた花柳界(芸妓、料亭、待合茶屋、検番、置屋、芸事の師匠からなる社会)が存在し、各地の花柳界はそれぞれが現地の社会・文化的コンテクスト(文脈)と密接な関わりがある。申請者は、2013年度関西学院大学先端社会研究所リサーチコンペ採択課題において、長野県諏訪湖沿岸部の花柳界をフィールドに、花柳界内部での〈芸〉と〈色〉の実態と再編について焦点をあて、調査と分析を行なってきた。
 この調査のなかで、上記の点以外にも、1990年代から日本各地の地方花柳界が衰退状況にあること、この状況を打破すべく、各地の地方花柳界では「文化資源化」「観光化」「芸妓会社化・NPO法人化」など多様な「模索」が展開されていることが明らかとなった。しかし、これらの「模索」の全てが成功しているわけではない。諏訪湖沿岸部の花柳界では、模索による再編が当該地域の社会・文化的コンテクストと適合しなかったため、花柳界内部で葛藤が生じている。
 これらのことを踏まえ、本研究では、花柳界再生への模索と、模索により発生する葛藤とそれへの人びとの対応のあり方について、秋田市川反での現地調査をもとに解明する。

【講評】

 これまで十分には研究が行われてこなかった地方花柳界の研究という意味では高く評価できる。また旧来の花柳界と新しい花柳界とを比較して、後者を文化資源化という観点から考えるという観点も明確で評価でき、これまでの調査を踏まえて計画性も高い。とはいえ、かつての花柳界と、文化資源として街おこしに使われる花柳界とは同じものでないことは明らかなのだから、グローバリゼーションなどの社会的背景の変化を勘案した、現在における日本伝統文化の変容という観点を入れて考察することが重要である。すなわち、この研究が前提として想定している「文化」を明確化し、そのような一般的でより広い文脈との関係においてこの研究を位置づける努力が必要になるだろう。

ナラティヴとナラティヴの接続に関する社会学的研究――明治時代の投書を事例として

矢﨑 千華(社会学研究科博士課程後期課程3年)
 ナラティヴとは、複数の出来事を時間軸上に配列することで成り立つひとつの言語形式である。本研究は、そのように特徴的な言語形式が社会変動期において人びとによって実際にどのように使用されながら、社会的な機能を果たしてきたのかを研究するものである。その際、本研究では、日本における社会変動期として位置づけられる明治時代を対象としながら、ナラティヴにより近代社会が形成される過程を記述することを試みる。
 分析の対象は明治期の雑誌上の投書欄であるが、その特徴として一つの投書が他の投書を誘発し投書者内で「不幸」な身の上の比べ合いが始まることをあげることができる。人びとはどのようにして自身の「不幸」を訴えるのか、また、どのようにして先行するナラティヴよりも「より不幸」であることを訴えるのか。本来、比較不可能であるはずの個人的な物語としての「不幸」が比較という行為を通じて接続され連鎖していく。本研究の論点は、その奇妙な接続と連鎖の社会学的含意は如何なるものなのかということである。「不幸」という表象を通じて個人的なものが連鎖し、近代社会というある種の連帯性が可能になっているということを分析的に明らかにしていく。

【講評】

 明治後期における「ナラティブの接続」に着目し、それを具体的には雑誌メディアにおける投稿から読み解いていくという作業は興味深く、またそれがある種の共同体意識を形成するという議論も興味深い。とくに幸福よりもむしろ不幸が相互に接続されていく様態がどのようにして可能になったのかという問題について着目したことは評価できる。ただしこの研究を可能にしている方法論と、それら方法論が前提としている言説同士の接続ならびに言説と社会との関係を明確化しなければ、説得性も一般性ももたないことに注意する必要がある。とくに不幸のナラティブにおけるジェンダー的傾向を近代社会の特性との関係で論じようと試みるのであれば、分析対象としている資料の特性をより広い文脈において適切に位置づけた上で、分析結果がどのような意味をもつのかという点について、より深く考察する必要があるだろう。

戦後・名古屋の都市イメージ作りと名古屋駅における排除―1964年東京オリンピックの際のクリアランスを事例に

加藤 晴美(社会学研究科博士課程前期課程1年)
 現在の名古屋駅周辺は、都市社会学の「他者」問題で扱われてきたマイノリティが集まる場である。歴史を紐解いてみると、戦後の駅周辺は「他者」が集まり、また、排除される場であった。1964年の東京オリンピックの際、名古屋駅ではクリアランスが行われた。「名古屋の顔」である名古屋駅周辺にたむろしていた日雇い労働者やセックスワーカーの女性を他者化=排除しようとした。
 本研究では、戦後期の名古屋の都市イメージ作りの中でどのように他者化が行われたのかを1964年の東京オリンピックに伴うクリアランスから明らかにしていく。その際、分析のポイントとして、高度成長期中で周辺都市・名古屋からみた中心都市・東京の意味付け・東京との関係性の中にどう名古屋を位置づけたかったのか、という点を補助線とする。さらに、冒頭で述べた現在の名古屋駅における新たな「他者」がどのように現れ、まなざされてきたかについても追っていく。

【講評】

 クリアランスで一旦排除された場所が、再び姿を変えながら新たな時代に再包摂される過程はどこにでもよくある事例だが、詳細に調査することで名古屋市の事例の特殊性が差異化できるかもしれない。東京、大阪との比較で位置づけられる名古屋の微妙な立ち位置と都市アイデンティティ構築の難しさの問題は、広義の他者化あるいは他者問題の新しい角度として論じることも不可能ではないという点で興味深い。ただし、現状の研究計画のままでは、名古屋の都市イメージと、クリアランスの問題が有機的に結びついていないため、それらの間の結びつきを研究過程で十分に検討する必要がある。そのさいには文献研究に加えて聞き取り調査をすることで、研究に厚みと奥行きを加える必要もあるだろう。