所長挨拶

[ 編集者:先端社会研究所   2019年4月5日 更新 ]

社会調査の危機の時代に

社会科学は、私たちの住まう社会に何が起きているのかを、科学的な手法で、客観的に明らかにしようとする学問である。

なぜ科学的であることや客観的であることが求められるのか。それは、社会というものが、誰もが触れる、言い換えれば、各人の観測範囲で起きている出来事に対してコメントすることが可能なものであるからだ。

たとえば、多くの人が「家族」という集団の中で生まれ、育つ。だから人びとは「家族とはこういうものだ、こうであるべきだ」とコメントすることができる。そういう人たちにとって家族とは、いまさら研究したり、実体を明らかにしたりする必要のない、自明の理念であるように思われるかもしれない。

ところが、社会科学的には、家族の姿はそのように自明なものでは決してない。データを見ると、21世紀に入るころから日本社会では、子育て中の世帯において専業主婦世帯よりも共働き世帯のほうが多くなっており、また高齢者の単身世帯が全世帯に占める割合も増加している。すなわち「働く父親と専業主婦の母親が営む子育て世帯」という、家族に関するイメージは、家族という形態を客観的に見れば、現代の日本ではマイノリティになっている。

あるいは、その「働く父親と専業主婦の母親が営む子育て世帯」の質的な様相も変化しつつある。働き方改革が言われるものの、世界的に見れば長時間労働を強いられる日本の雇用環境があり、子どもの方でも学習塾だけでなく、様々な文化資本を身につけるための習い事がある。家族それぞれの行動は個別化・流動化しており、「夜の時間帯に夕食をともにしながら団らんする」時間は減少している。他方で家族全員がスマホをもち、コミュニケーションアプリの中にグループを作成して、メッセージを送りあったり、友だちにするようにスタンプを押したりしている。家族イメージを感じられる領域がオンラインに広がるとともに、その実態も変化しつつあるのだ。

社会科学はこのように、人びとが自明に感じていることを、量的・質的な調査をもって検証し、その実態を明らかにし、来るべき社会を構想する、そのような役割を担っている。

ところが、広く社会を見渡すと、こうした科学的手法が理解されていないどころか、むしろ疎んじられている様子さえ感じることがある。

政治家は、「現実がどうあるかより、私たちがどう感じるかの方が重要だ」とばかりに、人びとの「実感」に訴えかけてポピュリズムを煽る。マスメディアは、「視聴者が求めているのだから私たちが悪いのではない」とうそぶいて、俗情に媚びた番組を制作する。企業は、商品の魅力をアピールするのではなく、「商品が魅力的だとみんなに思われていること」をアピールするためにソーシャルメディアでキャンペーンを行う。そして私たち市民は、そのような傾向に対して懐疑の目を向けるのではなく、自分自身も何か一言コメントしてやろうと、自身のアカウントで日々つぶやいている。

2019年に発覚した勤労統計に関する不正問題は、こうした「事実よりも直感が重んじられる」という傾向の突端に現れた、必然的な現象であるように思われる。

だが、それすらいまだ「思われる」という推測の域を出ない仮説である。社会に対して科学的であろうとすれば、一足飛びに「そうであるに違いない」と決めつけるのではなく、どのような人が、どのくらいのボリュームで「事実よりも直感を重んじている」と言えるのかを量的に明らかにしたり、そうした人びとが信じている意味世界がどのようなものであるのかを質的に明らかにしたりしなければならない。それは時間と手間のかかる作業であるだけでなく、いかにすればそれが明らかになるのか、その手段から考えなければならないという、暗闇に向かって手を伸ばす作業でもある。

先端社会研究所は、この「社会調査の危機の時代」にあって、いまだ明らかにされていないこと、いままさに生起しつつあることに向き合い、自ら研究するだけでなく、社会科学の新たな領域を切り開く先端的な研究への支援活動を通して、私たちの目の前の暗闇に、わずかでも光を灯す責務を担っている。本研究所の研究プロジェクトならびに各種事業に対してご理解を賜われれば幸いである。

2019年4月1日 鈴木謙介