関西学院は創立125周年を迎えました。

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関学タイムトンネル

[ 編集者:吉岡記念館   2011年6月8日 更新  ]

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10月11日

1921(大正10)年のこの日、原田の森の関西学院で中央講堂の定礎式が挙行されました。

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6月11日に基礎発掘式を行った中央講堂【写真】の定礎式が、T. H. ヘーデンの司会により午前9時から行われました。礎石の中には、前月26日に亡くなった創立者W. R. ランバスの遺髪が納められました。工事が完了し、献堂式が行われたのは翌年4月のことです。この中央講堂は、座席数1,600を有する大ホールであるだけでなく、院長室、社交室、食堂等を備えた関西学院の中心的建物となりました。当時、付近にはこのようなホールがなかったため、神戸市民の文化的行事の拠点としても大いに利用されました。

10月13日

1900(明治33)年のこの日、初めての野球の試合が御影師範学校との間で行われました。

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この記念すべき試合のことは、現在のESSの前身と考えられる「英語会」の機関誌The Maya Arashi, no. 3が伝えています。午後1時に始まった試合は、残念ながら7対6で関西学院が負けました。3日後、がんばった選手のために慰労会が開かれました。「負けたからこそ、素晴らしい会を持つことができたのだ。勝っていたらこの会はなかった」。吉岡美国院長【写真】は生徒にこう語りかけました。

10月24日

1924(大正13)年のこの日、高野山大学との第8回交換学術講演会が関西学院で開催されました。

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関西学院と高野山大学との間で交換学術講演会【写真は高野山で行われた第3回】が始まったきっかけは、講演部員である高等学部文科の八田昇岳が高野山中学の出身だったことです。第1回講演会は1921年冬に高野山で行われ、神学部教授吉崎彦一と学生4人が参加しました。第2回は6月に高野山大学から教授2名と学生5名を迎え、関西学院で開催されました。歓迎の食事に頭を悩ませ「シヤウジンレウリニスルカ」と先方に電報で問い合わせたところ、「タイガイハクフ」と返電があったので神戸杏香楼で歓待したと伝えられています。

11月22日

1919(大正8)年のこの日、イアン・オゾリンの雇用が理事会で承認されました。

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1918年9月から21年7月にかけて、高等学部(文科・商科)でイアン・オゾリン【写真】という名の若いラトビア人が英文学を教えていました。この教師は学生に多大な感化を与えたようです。「オゾリン教授は実に博学で、輝かしい知性の持ち主であったが、一風変わった性分だった」とカナダ人宣教師H. F. ウッズウォースは評しました。ある教え子は「16ヶ国語が話せる語学の天才」と語りました。時折銭湯で一緒になった学生は「文字通り真っ裸でつきあうことができたが、間もなく風のように日本を去り、ヨーロッパに帰ってしまった」とその想い出を記しました。

11月23日

1909(明治42)年のこの日、創立20周年記念祝賀式が執り行われました。

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祝賀式に参列した知事代理が会場で宗教学校の欠点を指摘した時、「ノーノー、偏見、偏見」という叫び声が上がったそうです。当日は、式典の他に、記念運動会、各種展示も行われました。展示の中から、村上博輔教務主任による興味深い統計を紹介しましょう。それは、普通科生徒の学年別、年齢別成績です【写真は記念刊行誌(英文・和文)】
第1学年(年少12歳 69点、年長19歳 87点)
第2学年(年少13歳 69点、年長17歳 70点)
第3学年(年少14歳 77点、年長19歳 68点)
第4学年(年少15歳 78点、年長20歳 65点)

11月30日

1921(大正10)年のこの日、高等商業学部講堂で専門部合同平和会議が開催されました。

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専門部合同平和会議は、C. J. L. ベーツ院長の司会により午前9時から始まりました。グリークラブによる合唱、神崎驥一高等商業学部長、河上丈太郎文学部教授【写真】、学生による演説の後、松本益吉副院長が次の決議文を読み上げました。「神戸関西学院専門部教職員及学生ハ世界恒久ノ平和ノタメ列国軍備ノ縮小ヲ希望ス」。決議文は直ちにワシントンに電送されました。この時、ワシントンではアメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱により、日本を含む9ヶ国が参加する国際軍事会議(ワシントン会議)が開催されていたのです。

12月10日

1931(昭和6)年のこの日、J. C. C. ニュートン前院長の追悼会が関西学院で行われました。

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「関西学院育ての親」と慕われたニュートン【写真】は、1931年11月10日、アトランタで亡くなりました。83歳でした。その一月後、関西学院の中央講堂で行われた追悼会には1,000人以上の教職員、学生・生徒が集まりました。ジョージア州アトランタに隠退後、”I want to go to Heaven through Japan.” (“I want to go to Heaven through Kwansei Gakuin.”との説もあります)と語り、自宅の西の窓を開け、日本と関西学院のために祈っていたニュートンが天に召されたのは、創立者W. R. ランバスの誕生日でした。

12月15日

1940(昭和15)年のこの日、C. J. L. ベーツは卒業生宛ての帰国挨拶状を書きました。

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カナダへの帰国(30日)を控え、この頃のベーツは、毎日のように開催される送別会と荷造りに忙しい日々を送っていました。日記には「大勢の人に帰国挨拶状を書かねばならない-印刷文になるだろう」「兵庫県庁と神戸市役所と西宮市役所に連絡しなければならない」「クリスマスの朝、日本で最後の説教をすることを忘れてはならない」等の記述が見られます。ベーツの帰国挨拶状(2種類)は学院史編纂室に保管されています【写真】。

12月29日

1930(昭和5)年のこの日、C. J. L. ベーツ院長は悲壮な覚悟で渡米しました。

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大学開設は専門部学生会の長年の夢でした。12月16日に開かれた臨時学生総会【写真はその開催掲示】は、大学昇格問題解決のためベーツ院長の渡米を要望することを決しました。院長室で決議文を手渡されたベーツは「もしも私がアメリカに渡ってこのことが成功しなければ、再び学院に帰って来られない訳ですね」と顔色を変えました。翌日の理事会で院長の渡米が承認されたことを知った学生会役員が宣教師館を訪ねると、「アメリカ行きの腹を決めました」と言ってベーツは学生たちの手を強く握り締めました。

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