従来宗教部が単独で行っていた伝道旅行と弁論部による講演旅行が合体し、さらに商学会が加わって大規模な文化講演旅行が行われました。岸波常蔵教授以下5名の宗教部、河上丈太郎教授以下5名の弁論部、東晋太郎教授【写真】以下5名の商学会、それに特別参加のH. W.アウターブリッヂ教授とC. J. L. ベーツ院長の長男レヴァーからなる一行は、敦賀、福井、金沢、長野、松本、甲府を回って60回の講演を行い、12,000人の聴衆を集めました。
戦後の混乱の中、関西学院は新しい教育制度への対応に追われていました。多忙を極める寿岳【写真】は、夏休みに入ってようやく恩師に手紙を書くことができました。手紙は「戦争中、お二人(ベーツ夫妻)のことを思わぬ日は一日としてありませんでした」と、格調高い英語で美しい和紙にタイプされています。寿岳は、関西学院を去るベーツから”Keep this holy fire burning.”の言葉を託された数少ない教え子の一人でした。
文部省の戦時非常措置による高等商業学校廃止の方針に対し、その存続運動の先頭に立った鈴木【写真】は、理事会による廃止決定に伴い、関西学院を退職しました。そして、教え子の徴用先に就職し、徴用学生の指導に当たったのです。空襲の際、逃げ遅れた学生を見つけた鈴木がその襟首を掴んで壕の中にけり込んだ瞬間、爆弾が炸裂しました。鈴木を「オトッチャン」と慕う教え子60人は、没後33年の追悼記念会を上ケ原のランバス記念礼拝堂で催しました。
ベーツ家の墓はスミス・フォールズからほど近いウォルフォード墓地にあります(最寄の都市はオタワ)。日本での働きを終え帰国したベーツは、夏になって祖父母や両親の墓を訪れました。「いつの日か私はここに眠りたい。母の隣に、ハティ(妻)も一緒に。墓石には、名前の他に『日本への宣教師1902-1940』と刻んでもらおう」。1963年12月23日、トロントで亡くなったベーツは、その前年死去した妻の隣に眠っています【写真】。
マウント・アリソン大学時代、ラグビーの選手だったアウターブリッヂ【写真】は、早速学生を集めてラグビーの基本を教えました。しかし、試合をするまでには到らず、いつしか練習も行われなくなりました。
事務処理が早いことから「アワテブリッヂ」と呼ばれたアウターブリッヂは、戦後いち早く関西学院に戻って学長に就任、神学部再興に尽力し、さらに第7代院長を務めました。書を嗜み、達者な日本語で「外橋(アウターブリッヂ)英一(H)」と名乗りました。