関西学院は創立125周年を迎えました。

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関学タイムトンネル

[ 編集者:吉岡記念館   2011年6月8日 更新  ]

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「タイムトンネル」を通って関西学院の歴史を旅してみませんか?

※ このサイトは 学院史編纂室 の協力を得て作成しています。

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4月 7日

1910(明治43)年のこの日、前日に実施された普通科入学試験の合格発表が行われ、83名の入学が許可されました。

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この合格発表は大混乱の中、行われました。と言うのは、当日朝7時前、敏馬(みるめ)沖で火薬船が爆発し、原田の森の関西学院は甚大な被害を蒙ったからです。南向きの本館の窓ガラスは1枚残らず砕け散り、窓枠は折れ曲がりました。地震かと飛び起きた寮生たち【写真は当時自修寮で使われていたオルガン】は、数個の水雷が一時に爆発したかのような大爆煙が神戸港を覆い、渦を巻いて天に立ち昇るのを見て、肝をつぶしました。

4月20日

1925(大正14)年のこの日、関西学院のコートにスノッドグラス、キンゼイ兄弟を迎え、テニスの試合が行われました。

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大阪毎日新聞社の招待により、アメリカ・テニス会の3巨星が4月3日に来日しました。15日間にわたるテニス・ツアーの最終日、原田の森の関西学院コートに3選手【写真右よりスノッドグラス、同夫人、キンゼイ弟、兄】を迎え、超満員の観衆の中、熱戦が繰り広げられました。対する日本選手は、早稲田の安部、本学出身の吉田、小林でした。この時の3選手のプレーは日本テニス会に大きな影響を与え、「とくにウェスタン・グリップの認識を基礎づけたといわれ」ています。

4月28日

1892(明治25)年のこの日、関西学院を創立したW. R. ランバスの父J. W. ランバスが神戸で亡くなりました。

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最期の時、傍らにいたのは妻メアリーと宣教師W. E. タウソンでした。J. W. ランバスは「私が目にしている天の栄光を語る言葉が私にはない」と叫び、「待っているとノラに伝えてくれ」と言い残したそうです。娘ノラは兄の親友と結婚し、中国で伝道活動に従事していました。病気の知らせを受け、神戸に向かったのですが、嵐のせいで船の到着が遅れ、臨終に間に合いませんでした。「関西学院の祖父」は神戸の小野浜墓地に埋葬されました【写真】。

5月 2日

1854年のこの日、J. W. ランバスと妻メアリーは、ニューヨークから中国に向かう帆船エリエール号の船室に入りました。

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関西学院創立者の両親【写真】がランバス家の故郷ミシシッピー州を出発したのは同年3月のことでした。ヴァージニア州リッチモンドで開催された宣教師の会合に出席し、ニューヨーク州のメアリーの実家にも立ち寄り、いよいよ中国伝道に向け、アメリカを離れることになりました。当時の中国への船旅は、ニューヨーク出航後大西洋を南下し、ケープ・タウンを回ってインド洋を横断するという4ヶ月以上におよぶ長旅でした。

5月18日

1923(大正12)年のこの日、J. C. C. ニュートン前院長は藍綬褒章を受章しました。

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関西学院創立以来の長きにわたる働きが認められ、5月2日付けでニュートンに藍綬褒章が授与されることになりました。17日に兵庫県内務部長から通知を受けたC. J. L. ベーツ院長は、この日、松本益吉副院長と共に出頭し、3日前に帰国したニュートンに代わって藍綬褒章と褒章の記を受け取りました。関西学院では、これらを長方形の木箱【写真】に納め、英訳文を添えて丁重に荷造りし、23日に書留小包でジョージア州アトランタのニュートン宛てに発送しました。

5月24日

1927(昭和2)年のこの日、C. J. L. ベーツ院長はカナダでの病気療養のため、神戸港を出航しました。

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悪性貧血と診断されたベーツ【写真】は、カナダで療養するため、妻と共にプレジデント・リンカーン号で帰国の途に着きました。大学昇格問題とキャンパス移転問題を抱えての心労が病気の一因だったのかも知れません。当時、この病気には治療法がないと言われていました。午前10時30分、夫妻を乗せた車は全教職員、学生・生徒の見送りを受け、小雨に煙る関西学院(原田の森)をあとにしました。

6月 7日

1929(昭和4)年のこの日、昭和天皇の使いとして、岡本愛祐侍従が関西学院を訪問しました。

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移転間もなく、未だ門柱のない上ケ原キャンパスの正門から総務部玄関前まで、フロックコート(またはモーニング)とシルクハットで身を固めた教職員と学生が立ち並ぶ中、岡本侍従を乗せた車が到着しました【写真】。この訪問は関西学院の教育状況視察のためでした。侍従とその随行者は、曽木銀次郎副院長の先導により、中央講堂、図書館を見学し、高等商業学部、文学部、神学部の授業を参観しました。

6月21日

1919(大正8)年のこの日、R. C. アームストロング高等学部長が辞任しました。

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カナダ・メソヂスト教会宣教師アームストロング【写真】は、1912年の開設以来、高等学部長を務めてきたC. J. L. ベーツの後任として、1917年に高等学部長に就任しました。学生に自由と義務の観念を力説し、”Kwansei Gakuin depends upon you.”と呼びかけ、自覚を促しました。学生を信頼し、大幅な自由を与えるという教育方針は、前任者の路線を引き継いだものと言えるでしょう。

6月24日

1893(明治26)年のこの日、関西学院普通学部は初めて卒業生(西郷康三と大久保繁雄)を送り出しました。

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関西学院は1889年に神学部と普通学部(予科2年、本科4年。予科1年が現在の中学1年)からなる男子校として創立されましたが、神学部は既に1891年に3名の卒業生を出していました。卒業後神学部に進んだ大久保【写真は卒業記念写真】は、J. C. C. ニュートン神学部長の妻レティを助け、原田村の日曜学校のために尽くしました。そして、赤痢に罹った子どもを何度も見舞う内に感染し、命を落としました。

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