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この合格発表は大混乱の中、行われました。と言うのは、当日朝7時前、敏馬(みるめ)沖で火薬船が爆発し、原田の森の関西学院は甚大な被害を蒙ったからです。南向きの本館の窓ガラスは1枚残らず砕け散り、窓枠は折れ曲がりました。地震かと飛び起きた寮生たち【写真は当時自修寮で使われていたオルガン】は、数個の水雷が一時に爆発したかのような大爆煙が神戸港を覆い、渦を巻いて天に立ち昇るのを見て、肝をつぶしました。
大阪毎日新聞社の招待により、アメリカ・テニス会の3巨星が4月3日に来日しました。15日間にわたるテニス・ツアーの最終日、原田の森の関西学院コートに3選手【写真右よりスノッドグラス、同夫人、キンゼイ弟、兄】を迎え、超満員の観衆の中、熱戦が繰り広げられました。対する日本選手は、早稲田の安部、本学出身の吉田、小林でした。この時の3選手のプレーは日本テニス会に大きな影響を与え、「とくにウェスタン・グリップの認識を基礎づけたといわれ」ています。
最期の時、傍らにいたのは妻メアリーと宣教師W. E. タウソンでした。J. W. ランバスは「私が目にしている天の栄光を語る言葉が私にはない」と叫び、「待っているとノラに伝えてくれ」と言い残したそうです。娘ノラは兄の親友と結婚し、中国で伝道活動に従事していました。病気の知らせを受け、神戸に向かったのですが、嵐のせいで船の到着が遅れ、臨終に間に合いませんでした。「関西学院の祖父」は神戸の小野浜墓地に埋葬されました【写真】。
関西学院創立者の両親【写真】がランバス家の故郷ミシシッピー州を出発したのは同年3月のことでした。ヴァージニア州リッチモンドで開催された宣教師の会合に出席し、ニューヨーク州のメアリーの実家にも立ち寄り、いよいよ中国伝道に向け、アメリカを離れることになりました。当時の中国への船旅は、ニューヨーク出航後大西洋を南下し、ケープ・タウンを回ってインド洋を横断するという4ヶ月以上におよぶ長旅でした。
悪性貧血と診断されたベーツ【写真】は、カナダで療養するため、妻と共にプレジデント・リンカーン号で帰国の途に着きました。大学昇格問題とキャンパス移転問題を抱えての心労が病気の一因だったのかも知れません。当時、この病気には治療法がないと言われていました。午前10時30分、夫妻を乗せた車は全教職員、学生・生徒の見送りを受け、小雨に煙る関西学院(原田の森)をあとにしました。
カナダ・メソヂスト教会宣教師アームストロング【写真】は、1912年の開設以来、高等学部長を務めてきたC. J. L. ベーツの後任として、1917年に高等学部長に就任しました。学生に自由と義務の観念を力説し、”Kwansei Gakuin depends upon you.”と呼びかけ、自覚を促しました。学生を信頼し、大幅な自由を与えるという教育方針は、前任者の路線を引き継いだものと言えるでしょう。