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関西学院について調べる/あの日の関西学院

関西学院にまつわる昔の様々なエピソードを日付ごとにご紹介します。
「タイムトンネル」を通って、関西学院の歴史を旅してください。

4月 7日

1910(明治43)年のこの日、前日に実施された普通科入学試験の合格発表が行われ、83名の入学が許可されました。

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この合格発表は大混乱の中、行われました。と言うのは、当日朝7時前、敏馬(みるめ)沖で火薬船が爆発し、原田の森の関西学院は甚大な被害を蒙ったからです。南向きの本館の窓ガラスは1枚残らず砕け散り、窓枠は折れ曲がりました。地震かと飛び起きた寮生たち【写真は当時自修寮で使われていたオルガン】は、数個の水雷が一時に爆発したかのような大爆煙が神戸港を覆い、渦を巻いて天に立ち昇るのを見て、肝をつぶしました。

4月20日

1925(大正14)年のこの日、関西学院のコートにスノッドグラス、キンゼイ兄弟を迎え、テニスの試合が行われました。

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大阪毎日新聞社の招待により、アメリカ・テニス会の3巨星が4月3日に来日しました。15日間にわたるテニス・ツアーの最終日、原田の森の関西学院コートに3選手【写真右よりスノッドグラス、同夫人、キンゼイ弟、兄】を迎え、超満員の観衆の中、熱戦が繰り広げられました。対する日本選手は、早稲田の安部、本学出身の吉田、小林でした。この時の3選手のプレーは日本テニス会に大きな影響を与え、「とくにウェスタン・グリップの認識を基礎づけたといわれ」ています。

4月28日

1892(明治25)年のこの日、関西学院を創立したW. R. ランバスの父J. W. ランバスが神戸で亡くなりました。

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最期の時、傍らにいたのは妻メアリーと宣教師W. E. タウソンでした。J. W. ランバスは「私が目にしている天の栄光を語る言葉が私にはない」と叫び、「待っているとノラに伝えてくれ」と言い残したそうです。娘ノラは兄の親友と結婚し、中国で伝道活動に従事していました。病気の知らせを受け、神戸に向かったのですが、嵐のせいで船の到着が遅れ、臨終に間に合いませんでした。「関西学院の祖父」は神戸の小野浜墓地に埋葬されました【写真】。

5月 2日

1854年のこの日、J. W. ランバスと妻メアリーは、ニューヨークから中国に向かう帆船エリエール号の船室に入りました。

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関西学院創立者の両親【写真】がランバス家の故郷ミシシッピー州を出発したのは同年3月のことでした。ヴァージニア州リッチモンドで開催された宣教師の会合に出席し、ニューヨーク州のメアリーの実家にも立ち寄り、いよいよ中国伝道に向け、アメリカを離れることになりました。当時の中国への船旅は、ニューヨーク出航後大西洋を南下し、ケープ・タウンを回ってインド洋を横断するという4ヶ月以上におよぶ長旅でした。

5月18日

1923(大正12)年のこの日、J. C. C. ニュートン前院長は藍綬褒章を受章しました。

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関西学院創立以来の長きにわたる働きが認められ、5月2日付けでニュートンに藍綬褒章が授与されることになりました。17日に兵庫県内務部長から通知を受けたC. J. L. ベーツ院長は、この日、松本益吉副院長と共に出頭し、3日前に帰国したニュートンに代わって藍綬褒章と褒章の記を受け取りました。関西学院では、これらを長方形の木箱【写真】に納め、英訳文を添えて丁重に荷造りし、23日に書留小包でジョージア州アトランタのニュートン宛てに発送しました。

5月24日

1927(昭和2)年のこの日、C. J. L. ベーツ院長はカナダでの病気療養のため、神戸港を出航しました。

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悪性貧血と診断されたベーツ【写真】は、カナダで療養するため、妻と共にプレジデント・リンカーン号で帰国の途に着きました。大学昇格問題とキャンパス移転問題を抱えての心労が病気の一因だったのかも知れません。当時、この病気には治療法がないと言われていました。午前10時30分、夫妻を乗せた車は全教職員、学生・生徒の見送りを受け、小雨に煙る関西学院(原田の森)をあとにしました。

6月 7日

1929(昭和4)年のこの日、昭和天皇の使いとして、岡本愛祐侍従が関西学院を訪問しました。

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移転間もなく、未だ門柱のない上ケ原キャンパスの正門から総務部玄関前まで、フロックコート(またはモーニング)とシルクハットで身を固めた教職員と学生が立ち並ぶ中、岡本侍従を乗せた車が到着しました【写真】。この訪問は関西学院の教育状況視察のためでした。侍従とその随行者は、曽木銀次郎副院長の先導により、中央講堂、図書館を見学し、高等商業学部、文学部、神学部の授業を参観しました。

6月21日

1919(大正8)年のこの日、R. C. アームストロング高等学部長が辞任しました。

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カナダ・メソヂスト教会宣教師アームストロング【写真】は、1912年の開設以来、高等学部長を務めてきたC. J. L. ベーツの後任として、1917年に高等学部長に就任しました。学生に自由と義務の観念を力説し、”Kwansei Gakuin depends upon you.”と呼びかけ、自覚を促しました。学生を信頼し、大幅な自由を与えるという教育方針は、前任者の路線を引き継いだものと言えるでしょう。

6月24日

1893(明治26)年のこの日、関西学院普通学部は初めて卒業生(西郷康三と大久保繁雄)を送り出しました。

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関西学院は1889年に神学部と普通学部(予科2年、本科4年。予科1年が現在の中学1年)からなる男子校として創立されましたが、神学部は既に1891年に3名の卒業生を出していました。卒業後神学部に進んだ大久保【写真は卒業記念写真】は、J. C. C. ニュートン神学部長の妻レティを助け、原田村の日曜学校のために尽くしました。そして、赤痢に罹った子どもを何度も見舞う内に感染し、命を落としました。

7月 1日

1921(大正10)年のこの日、宗教部、弁論部に商学会を加えた総勢17名は地方文化宣伝旅行に出発しました。

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従来宗教部が単独で行っていた伝道旅行と弁論部による講演旅行が合体し、さらに商学会が加わって大規模な文化講演旅行が行われました。岸波常蔵教授以下5名の宗教部、河上丈太郎教授以下5名の弁論部、東晋太郎教授【写真】以下5名の商学会、それに特別参加のH. W.アウターブリッヂ教授とC. J. L. ベーツ院長の長男レヴァーからなる一行は、敦賀、福井、金沢、長野、松本、甲府を回って60回の講演を行い、12,000人の聴衆を集めました。

7月 9日

1947(昭和22)年のこの日、寿岳文章教授はカナダに住む恩師C. J. L. ベーツに手紙を書きました。

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戦後の混乱の中、関西学院は新しい教育制度への対応に追われていました。多忙を極める寿岳【写真】は、夏休みに入ってようやく恩師に手紙を書くことができました。手紙は「戦争中、お二人(ベーツ夫妻)のことを思わぬ日は一日としてありませんでした」と、格調高い英語で美しい和紙にタイプされています。寿岳は、関西学院を去るベーツから”Keep this holy fire burning.”の言葉を託された数少ない教え子の一人でした。

7月24日

1945(昭和20)年のこの日、鈴木吉満高等商業学校前校長は、川西航空機宝塚製作所で空襲に遭い亡くなりました。

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文部省の戦時非常措置による高等商業学校廃止の方針に対し、その存続運動の先頭に立った鈴木【写真】は、理事会による廃止決定に伴い、関西学院を退職しました。そして、教え子の徴用先に就職し、徴用学生の指導に当たったのです。空襲の際、逃げ遅れた学生を見つけた鈴木がその襟首を掴んで壕の中にけり込んだ瞬間、爆弾が炸裂しました。鈴木を「オトッチャン」と慕う教え子60人は、没後33年の追悼記念会を上ケ原のランバス記念礼拝堂で催しました。

8月 1日

1941(昭和16)年のこの日、C. J. L. ベーツ前院長は、カナダに帰国後初めての墓参の様子を日記に記しました。

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ベーツ家の墓はスミス・フォールズからほど近いウォルフォード墓地にあります(最寄の都市はオタワ)。日本での働きを終え帰国したベーツは、夏になって祖父母や両親の墓を訪れました。「いつの日か私はここに眠りたい。母の隣に、ハティ(妻)も一緒に。墓石には、名前の他に『日本への宣教師1902-1940』と刻んでもらおう」。1963年12月23日、トロントで亡くなったベーツは、その前年死去した妻の隣に眠っています【写真】。

8月19日

1920(大正9)年のこの日、大阪朝日新聞主催全国中等学校野球大会決勝戦で、関西学院中学部は慶應義塾普通部を17対0で破り、優勝しました。

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予選で4連投し、14日から始まった鳴尾大会1回戦を完封したエースで4番の主将沢昇は、2回戦前夜40度の熱を出しました。実は、春先から肋膜の気があったのを押して猛練習を重ねていたのです。それでも6回からマウンドに立つと、準決勝、決勝と投げ抜き、原田の森に深紅の優勝旗を持ち帰りました【写真】。翌年、高等商業学部に進んだ沢は、春の2試合に投げた後、咽頭結核と診断され故郷台湾に帰りました。沢が亡くなったのは1922年1月22日のことでした。

8月31日

1888(明治21)年のこの日、W. R. ランバスは、南メソヂスト監督教会第2回日本宣教部会で、神戸に青年のための学校を開設することを提案しました。

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アメリカからA. W. ウィルソン監督を迎え、J. W. ランバスの家で日本宣教部会が開催されました【写真はJ. W. ランバスによる会議録(複写)】。J. C. C. ニュートンの祈祷により午後2時から始まった初日の会議の最後に、W. R. ランバスは青年のための学校を神戸に開設することを提案しました。この提案は9月3日に審議され、神戸に男子校、広島に女子校を設立することになりました。こうして、翌年原田の森に誕生した男子校が関西学院です。

9月15日

1919(大正8)年のこの日、チェコスロバキア軍オーケストラと合唱隊による音楽会が関西学院で開催されました。

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シベリアを転戦していたチェコ軍が船の修理のため神戸に滞在した時、高等学部商科の学生で英語の堪能なグリークラブ員塩路義孝は、兵庫県外事課長から頼まれ、チェコ軍宿舎を訪ねました。こうして始まったチェコ軍との交流【写真】により、グリークラブは今も演奏会に欠かせない名曲「U Boj」の譜面を手に入れたのです。しかし、これはチェコの歌ではありませんでした。そのルーツ探しはグリークラブ関係者によって続けられました。「U Boj」がクロアチアの作曲家によるものであることが判明したのは、1975年11月25日のことでした。

9月16日

1912(明治45)年のこの日、カナダ・メソヂスト教会宣教師H. W. アウターブリッヂが関西学院に赴任しました。

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マウント・アリソン大学時代、ラグビーの選手だったアウターブリッヂ【写真】は、早速学生を集めてラグビーの基本を教えました。しかし、試合をするまでには到らず、いつしか練習も行われなくなりました。
事務処理が早いことから「アワテブリッヂ」と呼ばれたアウターブリッヂは、戦後いち早く関西学院に戻って学長に就任、神学部再興に尽力し、さらに第7代院長を務めました。書を嗜み、達者な日本語で「外橋(アウターブリッヂ)英一(H)」と名乗りました。

9月28日

1889(明治22)年のこの日、兵庫県知事より関西学院の設立が認可されました。

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「私立関西学院設立御願」は、9月6日に設立者中村平三郎【写真前列中央】から都賀野村役場を経て兵庫県に提出されました。私立学校の校主は日本人でなければならなかったのです。アメリカ人宣教師が経営する関西学院において、日本人校(院)主中村の存在なくしてその創立も運営もあり得ませんでした。中村は普通学部教師として英語と数学を担当しましたが、1893年に退職し、元町でネル屋中村商店を始めました。関西学院にとって、創立者W. R. ランバスと共に忘れてはならない、もう一人の大恩人と言えるでしょう。

10月11日

1921(大正10)年のこの日、原田の森の関西学院で中央講堂の定礎式が挙行されました。

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6月11日に基礎発掘式を行った中央講堂【写真】の定礎式が、T. H. ヘーデンの司会により午前9時から行われました。礎石の中には、前月26日に亡くなった創立者W. R. ランバスの遺髪が納められました。工事が完了し、献堂式が行われたのは翌年4月のことです。この中央講堂は、座席数1,600を有する大ホールであるだけでなく、院長室、社交室、食堂等を備えた関西学院の中心的建物となりました。当時、付近にはこのようなホールがなかったため、神戸市民の文化的行事の拠点としても大いに利用されました。

10月13日

1900(明治33)年のこの日、初めての野球の試合が御影師範学校との間で行われました。

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この記念すべき試合のことは、現在のESSの前身と考えられる「英語会」の機関誌The Maya Arashi, no. 3が伝えています。午後1時に始まった試合は、残念ながら7対6で関西学院が負けました。3日後、がんばった選手のために慰労会が開かれました。「負けたからこそ、素晴らしい会を持つことができたのだ。勝っていたらこの会はなかった」。吉岡美国院長【写真】は生徒にこう語りかけました。

10月24日

1924(大正13)年のこの日、高野山大学との第8回交換学術講演会が関西学院で開催されました。

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関西学院と高野山大学との間で交換学術講演会【写真は高野山で行われた第3回】が始まったきっかけは、講演部員である高等学部文科の八田昇岳が高野山中学の出身だったことです。第1回講演会は1921年冬に高野山で行われ、神学部教授吉崎彦一と学生4人が参加しました。第2回は6月に高野山大学から教授2名と学生5名を迎え、関西学院で開催されました。歓迎の食事に頭を悩ませ「シヤウジンレウリニスルカ」と先方に電報で問い合わせたところ、「タイガイハクフ」と返電があったので神戸杏香楼で歓待したと伝えられています。

11月22日

1919(大正8)年のこの日、イアン・オゾリンの雇用が理事会で承認されました。

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1918年9月から21年7月にかけて、高等学部(文科・商科)でイアン・オゾリン【写真】という名の若いラトビア人が英文学を教えていました。この教師は学生に多大な感化を与えたようです。「オゾリン教授は実に博学で、輝かしい知性の持ち主であったが、一風変わった性分だった」とカナダ人宣教師H. F. ウッズウォースは評しました。ある教え子は「16ヶ国語が話せる語学の天才」と語りました。時折銭湯で一緒になった学生は「文字通り真っ裸でつきあうことができたが、間もなく風のように日本を去り、ヨーロッパに帰ってしまった」とその想い出を記しました。

11月23日

1909(明治42)年のこの日、創立20周年記念祝賀式が執り行われました。

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祝賀式に参列した知事代理が会場で宗教学校の欠点を指摘した時、「ノーノー、偏見、偏見」という叫び声が上がったそうです。当日は、式典の他に、記念運動会、各種展示も行われました。展示の中から、村上博輔教務主任による興味深い統計を紹介しましょう。それは、普通科生徒の学年別、年齢別成績です【写真は記念刊行誌(英文・和文)】
第1学年(年少12歳 69点、年長19歳 87点)
第2学年(年少13歳 69点、年長17歳 70点)
第3学年(年少14歳 77点、年長19歳 68点)
第4学年(年少15歳 78点、年長20歳 65点)

11月30日

1921(大正10)年のこの日、高等商業学部講堂で専門部合同平和会議が開催されました。

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専門部合同平和会議は、C. J. L. ベーツ院長の司会により午前9時から始まりました。グリークラブによる合唱、神崎驥一高等商業学部長、河上丈太郎文学部教授【写真】、学生による演説の後、松本益吉副院長が次の決議文を読み上げました。「神戸関西学院専門部教職員及学生ハ世界恒久ノ平和ノタメ列国軍備ノ縮小ヲ希望ス」。決議文は直ちにワシントンに電送されました。この時、ワシントンではアメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱により、日本を含む9ヶ国が参加する国際軍事会議(ワシントン会議)が開催されていたのです。

12月10日

1931(昭和6)年のこの日、J. C. C. ニュートン前院長の追悼会が関西学院で行われました。

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「関西学院育ての親」と慕われたニュートン【写真】は、1931年11月10日、アトランタで亡くなりました。83歳でした。その一月後、関西学院の中央講堂で行われた追悼会には1,000人以上の教職員、学生・生徒が集まりました。ジョージア州アトランタに隠退後、”I want to go to Heaven through Japan.” (“I want to go to Heaven through Kwansei Gakuin.”との説もあります)と語り、自宅の西の窓を開け、日本と関西学院のために祈っていたニュートンが天に召されたのは、創立者W. R. ランバスの誕生日でした。

12月15日

1940(昭和15)年のこの日、C. J. L. ベーツは卒業生宛ての帰国挨拶状を書きました。

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カナダへの帰国(30日)を控え、この頃のベーツは、毎日のように開催される送別会と荷造りに忙しい日々を送っていました。日記には「大勢の人に帰国挨拶状を書かねばならない-印刷文になるだろう」「兵庫県庁と神戸市役所と西宮市役所に連絡しなければならない」「クリスマスの朝、日本で最後の説教をすることを忘れてはならない」等の記述が見られます。ベーツの帰国挨拶状(2種類)は学院史編纂室に保管されています【写真】。

12月29日

1930(昭和5)年のこの日、C. J. L. ベーツ院長は悲壮な覚悟で渡米しました。

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大学開設は専門部学生会の長年の夢でした。12月16日に開かれた臨時学生総会【写真はその開催掲示】は、大学昇格問題解決のためベーツ院長の渡米を要望することを決しました。院長室で決議文を手渡されたベーツは「もしも私がアメリカに渡ってこのことが成功しなければ、再び学院に帰って来られない訳ですね」と顔色を変えました。翌日の理事会で院長の渡米が承認されたことを知った学生会役員が宣教師館を訪ねると、「アメリカ行きの腹を決めました」と言ってベーツは学生たちの手を強く握り締めました。

1月 7日

1889(明治22)年のこの日、U. W. アトレーは、パルモア学院に昼間の学校を開校しました。

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夜間部しかなかったパルモア学院で昼間の授業を始めたのはアトレー【写真】です。1888年11月1日のことでした。しかし、昼間と言っても午後だけで、需要に応えるには十分ではありませんでした。そこで、年明けの1月7日から本格的に昼間の学校を始めることにしたのです。生徒10人で始まったクラスは、すぐに30人に増え、48人になりました。関西学院創立に伴い、アトレーは初代普通学部長に就任しました。

1月15日

1897(明治30)年のこの日、普通学部で英語を教えていた鈴木愿太は関西学院を辞職しました。

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上海留学中の鈴木【写真右端】は、1886年2月の初対面以来、週2度はJ. W. ランバスを訪ねるようになりました。仙台出身の鈴木の能力と人間性を見込んだランバスは、南メソヂスト監督教会日本伝道開始に当たり日本への同行を求めました。宣教師一行と共に神戸に到着した鈴木は、通訳から警察、県、市との交渉、使用人の雇入れ、必需品の買出し等、休む間もなく働きました。そして、同教会初の受洗者となってアメリカに留学しました。8年後、神戸に骨を埋める覚悟で帰国したのですが、わずか2年足らずで関西学院を辞職してしまいます。「W. R. ランバスが日本に居てくれたなら…」。後年、鈴木はその時の心境をこう語りました。

1月28日

1915(大正4)年のこの日、辞職を決めた小山東助文科長は、学生を前に1時間半におよぶ告別演説を行いました。

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小山【写真】が内ケ崎作三郎の紹介でC. J. L. ベーツ高等学部長と初めて会ったのは1913年6月下旬のことでした。数時間後、10年来の知人であるかのように打ち解けた二人は手を握り、小山の関西学院への赴任が決まりました。在任中、小山は文科のカリキュラム改革等、大いに力を発揮しましたが、幼い頃より抱いていた政治家になる夢を果たすため故郷気仙沼に帰ることになりました。「理想家であり、思想家であり、文学者でもあれば、哲学者でもある。よき説教者であり、Mysticな人であり、政治家としても宗教家としても当代稀に見る大人物であった」とその辞職は大いに惜しまれました。

2月 6日

1939(昭和14)年のこの日、H. F. ウッズウォース法文学部長が脳溢血のため急逝しました。

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5年前、静脈炎と血栓症のため宣教師館で寝たきりになったC. J. L. ベーツ院長は、ウッズウォース【写真】の手厚い看護を受け、快復しました。そんなベーツにとって、年下のウッズウォースが自分より先に天に召されるとは思いもよらぬことでした。翌日、5~60人が集まって自宅で告別式が行われ、9日には中央講堂で学院葬が営まれました。学院葬には、京都帝国大学の西田幾太郎教授をはじめ、約700名が参列しました。在職中に亡くなったウッズウォースは東京の青山霊園に眠っています。

2月11日

1915(大正4)年のこの日、高等学部商科会は『商光』創刊号を発行しました。

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「高等商業教育は実業界との連絡を待って完成する」との考えから、高等学部商科では学生会とは別に商科会が組織され、年に数回、実業家を招いて講演会が開催されました。会報として発行されたのが『商光』です。創刊号には「講演論説」として、C. J. L. ベーツ高等学部長による”OUR COLLEGE MOTTO, MASTERY FOR SERVICE”が掲載されました。また、商業実践の場として、教職員・学生により「関西学院消費組合」【写真】が組織され、学生が経営に当たりました。しかし、次第に学用品だけでなく教職員の家庭必需品まで取り扱うようになったため、学生だけでは行き届かなくなり、専任職員が担当することになりました。

2月28日

1917(大正6)年のこの日、不審火により中学部校舎が全焼しました。

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午前9時、1時間目の授業を終えた中学部生が礼拝のため移動を始めた時、3階の音楽室付属の物入から火が出ているのが見付かりました。急を聞いて駆けつけた教職員、学生生徒は、一致団結して重要書類や校具を運び出しました。音楽室から大型オルガンを一人で担ぎ出した中学部生竹村晋の奮闘や、延焼を食い止めるため水に濡らした柔道着を頭に巻きつけ本校舎と裏手付属舎間の廊下を破壊した猛者の話等、数々の武勇伝が伝えられています。関西学院は4年前に落成したばかりの校舎を失いました【写真】。

3月11日

1911(明治44)年のこの日、カナダ人宣教師D. R. マッケンジーが会計課長に選出されました。

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戦前の関西学院では、『理事会記録』も『会計帳簿』も英語で記入されていました。その美しく見事な筆跡からは、関西学院に関わった多くの人の苦労が偲ばれます。
D. R. マッケンジー【写真前列中央】は、イビー自給バンドの一員として1888年に来日しました。当初、金沢の第四高等学校で英語を教えましたが、これは、幼児の言語習得の早さにヒントを得て開発されたグアン教授法を日本で用いた最初であったと言われています。

3月22日

1894(明治27)年のこの日、原田の森の関西学院で本館の献堂式が執り行われました。

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関西学院創立の5年後、木造2階建ての立派な本館【写真右端が竣工前の本館】が完成しました。のちに3階が増築されるまで、2階の屋根の上は眺望の良い物見台になっていました。物見台には、アメリカ人宣教師C. M. ブラッドベリー(普通学部長)の発案により、脇浜村の高尾鉄工所鋳造の鐘が取り付けられました。授業の開始や終了を告げる美しい鐘の音は(新)生田川の辺りまで届いたそうです。

3月29日

1907(明治40)年のこの日、第17回卒業式が行われ、創立者W. R.ランバスが英語で演説しました。

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ランバス【写真】は関西学院創立の翌年に離日していますから、これは創立者が参列した唯一の卒業式でしょう。この時の講演内容は次のように伝えられています。「博士は先づ学院の創造当時より説き及ぼされこの関西学院の設立を見るに至りしは全く祈祷の力なり云々而して学院の現況及び将来を論及せらるゝ事約1時間半なりき」。講演通訳は松本益吉、卒業式司会は吉岡美国院長が務めました。従来6月に行われていた関西学院の卒業式が3月に行われるようになったのは、1897年からのことです。

・・登場人物と舞台・・

N. W. アトレー‥‥関西学院初代普通学部長
鈴木愿太‥‥ランバス一家の通訳
J. W. ランバス‥‥関西学院創立者の父
W. R. ランバス‥‥関西学院創立者
小山東助‥‥関西学院高等学部文科長
内ケ崎作三郎‥‥C. J. L. ベーツの日本で初めての友
C. J. L. ベーツ‥‥関西学院第4代院長、初代高等学部長、初代学長
H. F. ウッズウォース‥‥関西学院大学初代法文学部長
西田幾太郎‥‥京都帝国大学教授
竹村晋‥‥関西学院普通学部生徒
(C. S. )イビー‥‥カナダ・メソヂスト教会宣教師
D. R. マッケンジー‥‥関西学院会計課長
(フランソワ・)グアン‥‥外国語学習法の一種ダイレクト・メソッド考案者
C. M. ブラッドベリー‥‥関西学院普通学部長
松本益吉‥‥関西学院副院長
(ハーベイ・)スノッドグラス‥‥アメリカの庭球選手
キンゼイ兄弟(ハワード、ロバート)‥‥アメリカの庭球選手
安部(民雄)‥‥庭球選手(早稲田)
吉田(嘉寿男)‥‥庭球選手(関西学院)
小林(了ニ)‥‥庭球選手(関西学院)
メアリー・ランバス‥‥関西学院創立者の母
W. E. タウソン‥‥南メソヂスト監督教会宣教師
ノラ・パーク‥‥関西学院創立者の妹
J. C. C. ニュートン‥‥関西学院第3代院長、初代神学部長
岡本愛祐‥‥昭和天皇侍従
曽木銀次郎‥‥関西学院副院長
R. C. アームストロング‥‥関西学院高等学部長
西郷康三‥‥関西学院普通学部第1回卒業生
大久保繁雄‥‥関西学院普通学部第1回卒業生
レティ・ニュートン‥‥J. C. C. ニュートンの妻
岸波常蔵‥‥関西学院文学部教授
河上丈太郎‥‥関西学院文学部教授
東晋太郎‥‥関西学院高等商業学部教授
H. W. アウターブリッヂ‥‥関西学院第7代院長
レヴァー・ベーツ‥‥C. J. L. ベーツの長男
寿岳文章‥‥関西学院文学部教授
鈴木吉満‥‥関西学院高等商業学校長
ハティ・ベーツ‥‥C. J. L. ベーツの妻
沢昇‥‥関西学院中学部生、野球部主将
A. W. ウィルソン‥‥南メソヂスト監督教会監督
塩路義孝‥‥関西学院高等学部商科生、グリークラブ員
T. H. ヘーデン‥‥関西学院神学部長
吉岡美国‥‥関西学院第2代院長
八田昇岳‥‥関西学院高等学部文科生
吉崎彦一‥‥関西学院神学部教授
イアン・オゾリン‥‥関西学院高等学部講師
村上博輔‥‥関西学院普通学部教務主任
神崎驥一‥‥関西学院第5代院長、高等商業学部長
(ウォレン・)ハーディング‥‥アメリカ合衆国第29代大統領

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関西学院は、1889(明治22)年にアメリカの南メソヂスト監督教会宣教師W. R. ランバスによって創立されました。創立時は神学部と普通学部だけでしたが、1910(明治43)年にカナダ・メソヂスト教会が経営に加わり、2年後、高等学部(文科・商科)が開設されました。1908(明治41)年に専門学校令による認可を受けた神学部と1912(明治45)年開設の高等学部は、1921(大正10)年から専門部となりました(神学部、文学部、高等商業学部)。高等商業学部は1935(昭和10)年に高等商業学校として独立し、専門部は2学部になります。大学(予科、法文学部、商経学部)開設は1932(昭和7)年でした。

キャンパスは、創立時から1929(昭和5)年3月まで原田の森(現在の神戸市灘区)にありましたが、同年4月に上ケ原(現在の西宮上ケ原キャンパス)に移転しました。

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