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関西学院を創ったひとたち: ランバス, W.R.

[ 編集者:吉岡記念館   2012年11月24日 更新  ]

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※ このサイトは2004年度に開催された「創立者ウォルター・R・ランバスのたどった足跡」(大学図書館、学院史編纂室共催)のために準備された資料の一部を用いて作成しています。

ランバス, W.R.

Lambuth, Walter Russell Thornton (1854.11.10- 1921.9.26)
ランバスwr


 初代院長。南美以神戸教会(現、神戸栄光教会)初代牧師。アメリカ南メソヂスト監督教会(MECS)ジャパン・ミッションの創立者J.W.ランバスの息子。父の中国伝道開始の年、上海において誕生。ヴァンダビルト大学で神学と医学を修める。

 1876年、執事に任じられ、ウッドバイン教会の初代スチューデント・パスターを務めた後、翌77年、長老の按手礼を受ける。同年 8月 2日、MECS中国伝道における宣教師の娘であったデイジー・ケリー(Daisy Kelley, 1858.2.24-1923.5.24)と結婚、11月に上海へ渡り、医療伝道を開始。81年一時帰米し、ニューヨーク・ベルビュー大学病院にて東洋医学を研究、同病院より学位取得、翌年上海に帰任。86年11月24日,MECSジャパン・ミッションの総理として神戸へ着任し、南美以神戸教会初代牧師に就任。88年、無一文の中、神戸の地で関西学院創立をめざした。巨額の費用を要する事業だったが、ランバスの祈りが香港上海銀行神戸支店から無担保の融資、またアメリカの銀行家トーマス・ブランチらの献金を呼んで実現する。「祈りを建設的な力とするためには、明確な目標をもった祈りである限り大胆でなければならない」。翌年 9月28日の関西学院創立に伴い初代院長に就任。

 1890年12月16日、妻の病のため離日、本国伝道局において活躍し、1910年、海外ミッション担当の監督に選任される。21年、さらなる世界伝道のためシベリアから中国、朝鮮を回り、 8月末に日本を改めて訪れるが発病し、 9月26日、横浜にて病没する。最後の言葉は "I shall be constantly watching." だった。著書に Winning the World for Christ, 1915, Side Lights of the Orient for Young readers, 1908がある。(『関西学院事典』より一部改編)

写真でたどるウォルター・R・ランバスの生涯

初めての祖国アメリカ-1860年(5才)-
01_初めての祖国アメリカ



 1854年、アメリカ南メソヂスト監督教会中国伝道の宣教師の長男として上海で生まれたウォルターが初めて祖国アメリカの地を踏んだのは5才の時であった。子どもの教育と健康を考えた母メアリーは、ウォルターとその妹ネティを連れ、4ヶ月にも及ぶ船旅を経てアメリカに戻った。当初はウォルターだけを実家(ニューヨーク州)に預け、ネティは中国に連れて帰るつもりであったが、ネティが祖父になつく様子を見て二人とも置いていく決心をする。一方、既に物心のついていたウォルターは母を恋しがって度々泣いた。

 幼いウォルター(右端)が妹の肩をギュッと抱いている様子が愛らしい。左端は従兄弟のアルフォード。当時のメソヂスト誌は、初めてアメリカの土を踏んだ中国生まれのウォルターのことを「目鼻立ちの整った利口な子どもで、英語より中国語で話すことが多い」と報じている。

上海-1865年頃(10才頃)-
02_上海



 南北戦争が始まり本国からの送金が途絶えても、両親は外国人相手の宿泊所を経営するなど、収入を得る努力を続け、中国に踏みとどまっていた。しかし、ついにアメリカに一時帰国することになった。そして、故郷ミシシッピー川パールリバーで、親子4人の生活が始まった。故郷での2年間の生活の後、戦争末期の混乱をかいくぐってランバス一家は再び中国に戻る。猩紅熱で亡くなったネティの墓標をあとに、生後4ヶ月のノラを抱いての困難極まる旅であった。中国での生活が再び始まったのだ。


父の印刷機-1866年頃(11才頃)-
03_父の印刷機



 父ウィリアムが、中国での伝道に必要な発行やトラクトを印刷するのに使っていた印刷機の前で。ウィリアムは、上海に西洋式の印刷出版所を設立したことでも知られる。右端の中国人は Yung Kyung San (?)。ランバス家とは家族ぐるみのつきあいであった。


アメリカ出発前-1867年頃(12才頃)-
04_アメリカ出発前



目と咽の病気の治療と学業のため、ウォルターは14才で単身アメリカに渡る。その前に中国で撮影された家族の集合写真。弟ウィリーの姿が見られないので、弟誕生前の1867年の撮影ではないかと思われる。

エモリー・アンド・ヘンリー大学卒業-1875年(20才)-
05_エモリー・アンド・ヘンリー大学卒業



 息子の卒業式に出席するため、母メアリーは、妹ノラと弟ウィリーを連れ、はるばる中国から駆けつけた。6年ぶりの再会だった。頼もしく成長した息子の姿を見たメアリーの喜びはいかばかりであったことか。ウォルターも、嬉しさの余り2駅先まで出迎えに行ったと言われる。
 この写真ではウォルターが長身に写っているが、実際のウォルターはアメリカ人としては小柄だった。体重も生涯を通じて57kgを超えることはなかった。

学業を終え上海に戻る-1877年頃(22才頃)-
06_学業を終え上海に戻る



 エモリー・アンド・ヘンリー大学卒業後、さらにヴァンダビルト大学で医学と神学を修めたウォルターは、新婚間もない妻デイジーを連れて中国に戻り、上海郊外に麻薬中毒療養所を開設した。

中国での一家-1879年頃(24才頃)-
07_中国での一家



 父ウィリアム(左端)が、膝にウォルターの長男デイヴィッドを抱いていることから、1879年か80年に上海の自宅ポーチで撮影されたものと推測される。父の右に母メアリーとウォルター。妻デイジーは前列右。

関西学院創立前の宣教師たち-1888年(33才)-
08_関西学院創立前の宣教師たち



 1886年、南メソヂスト監督教会日本宣教部設立に伴い、ランバス一家は30年以上におよぶ中国での生活に別れを告げ来日した。ランバス家の住居山二番館での宣教師仲間との記念撮影。後列左から3人目が父ウィリアム、その右隣りにウォルター、妻デイジー、母メアリーと長女メアリー、最前列に長男デイヴィッド。


山二番館でのランバス一家-1889年(34才)-
09_山二番館でのランバス一家



 中国から妹ノラ一家も神戸に来て、ランバス家の家族が全員集合した幸せいっぱいの写真。後列左から、妹ノラとその長女マルガリータと夫パーク、妻デイジー、ウォルター、弟ロバートとその妻アリスと長女ネティ。中央に両親ウイリアムとメアリー、メアリーの膝に次男ウォルター。最前列左が長男デイヴィッド、右が長女メアリー。この年、ウォルターは関西学院を創立。3人の赤ん坊も関西学院と同じ1889年の生まれである。

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