陳 立行教授(1)

[ 編集者:社会学部・社会学研究科      2015年7月16日   更新 ]

中国から国費留学生として日本へ

社会学との出会いはどのようなものでしたか?

陳教授1

中国での大学時代にアメリカ人の外国人教師から社会学の入門書「Introduction to Sociology」を紹介され、社会学のおもしろさを知りました。当時、中国には社会学という学問はなく、外国学部英語学科で英語を勉強していた私にとって、社会学はおもしろい学問分野に感じられました。

当時の中国の状況について教えてください。

1966年に始まった文化大革命の影響で大学入試が停止されました。大学入試が復活したのは、文革が終了した1977年10月からで、それまで12年間も大学入試がなく、大学教育ができない状況が続いていました。政治指導者が毛沢東氏から鄧小平氏へ変わることで、すさまじい社会の変化によって個人の人生も「天から地まで/地から天まで」というほど大きく変わるという体験をしました。

どのような学生時代でしたか?

学生時代の陳教授

学生時代の陳教授(中央列、左から5人目)

25歳で大学に入学した当時は、中国の歴史においても特別な時期だと思います。
大学入試は11年間の中断があったため、新入生の年齢層は幅広く、16歳~32歳のクラスメイトは経歴も多様であり、非常にユニークな集団だったと言えます。
文化大革命の期間、勉強の機会がなかったため、学生たちの学習意欲は非常に高かったです。日本における戦後直後の大学生と同じような環境を想像してもらうとイメージしやすいかもしれません。 
大学では、外国語学部以外の学部の授業も自由に傍聴することができ、それぞれの授業に刺激を受けました。体系だった学習をしなかったことで結果的に、異なった学問分野、不連続にも思える授業の中に、何かしらの共通点をみつける思考を育むことになりました。そのことは後年、社会学を学ぶうえでの基礎になったと思います。

どうして日本に進学したのですか?

1980年代初期、中国の近代化を実現するために、海外へ国費留学生を派遣する政策が採られており、その試験に合格し、アメリカに留学することを志望しました。
しかし、中国教育部の調整により日本へ派遣されることとなりました。日本に来る前、大連外国語大学で半年間日本語を勉強しました。筑波大学に来た時、日本語能力も社会学に関する知識も十分ではなかったため、日本語の講義は全く分かりませんでした。
幸いに、私は英語が話せたので、大学院の教授とは英語でコミュニケーションを取り、大学図書館にある英語の社会学の書籍を読んで猛烈に勉強しました。マルクスの理論についても、中国にいた時には必須科目として勉強しましたが、それほど興味を持っていませんでした。しかし、社会学の視点から読むと、とてもおもしろく感じました。

陳教授のインタビューは(2)まで続きます!
(2)では国際機関での経験や担当科目について詳しく伺います。

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