2015.02.13.
「われら関学経済人」 三宅 藍子 さん

【卒業年月】  2012年3月
【名  前】  三宅 藍子 (ミヤケ アイコ))
【出身高校名】兵庫県立神戸高等学校
【基礎演習名】 藤田 友尚 教授
【研究演習名】小林 伸生 ゼミ
【勤務先】  讀賣テレビ放送株式会社

※ 本ページの内容は2015年1月現在のものです。

これまでどんな仕事をしてきましたか?

入社してから3年間、讀賣テレビの朝の情報番組「す・またん!&ZIP!」を担当しています。1年目はADとして、まわりの雑用や出演者へのフォロー、お天気コーナーを担当しながら番組の仕組みを覚え、2年目から現在に至るまでは、ニュース班のディレクターとして、日々のニュースコーナーや企画VTRを作っています。早朝の生放送番組ということもあり、1週間のうち基本的に3時出勤が2日、前日の24時出勤が1日、通常の時間に働いているのが2日、と日々時差ボケの生活です。  オンエア前の準備では、前日のニュースを再編集したり、その日の朝刊各紙からニュースキャスターが解説するための情報を集めます。並行して週に一度、3~4分ほどの企画枠も担当しており、世の中の人がいま気になる話題は何なのか、その取材で出演者をどういかせば面白くなるのか、どう構成し編集するとわかりやすいかなどを日々考えながら仕事をしています。企画ネタが決まらず街をブラブラ散策することもあれば、編集室にこもって数日編集機と格闘することもあり、はたまた必要に応じて自分自身が中継リポートや食レポを求められることもあり、ディレクターの仕事の幅の広さを日々感じています。

経済学部ではどんな学生でしたか?また、どんなことを学びましたか?

様々なことに手広く挑戦するものの、結局どれも中途半端にしてしまう…そんな学生だったと思います。それでも、唯一諦めなかったのがゼミ活動です。 関学随一のディベートチーム「小林ゼミ」に入り、昨今の経済的課題をチームで突き詰めて議論しながら1つの答えを結論付け、その答えに向け一丸となって資料を集めたり、具体的にシュミレーションを作ったりしていました。議論すればするほど新たな問題点が生じてしまうものでしたが、大会がある都度行われていた深夜に及ぶスカイプ会議は、今となっては良い思い出です。当時議論していた「大阪都構想」や「関空と伊丹の経営統合」についての知識が、日々の仕事で役に立った時は鳥肌が立ちました。  また卒業論文では、日本農業を統計学的に考察し、「現代の農業が生き残る方法」を模索しました。過去の膨大な数字から、答えを導き出すのは気の遠くなる作業の連続でしたが、あの時の粘りが、日々の取材の中でも生かされているなと思います。

今の経済学部生にメッセージをお願いします!

大学生活は自由な一方で、道しるべがなく、迷い悩む時期だと思います。どうすれば○○になれるのか、○○になるためには自分には何が足りないのか…。私自身、マスコミに入るためには何か自分に肩書きがなくてはいけないのではないかと、中途半端に資格試験に必死になって周りが見えなくなっている時期もありました。  そんな自分の経験から私が皆さんにお伝えできるとしたら、「これだけは大学生活でやり遂げた」と胸を張って言えるものを、何か一つ持って欲しいということです。極論、勉強に限らず、サークルでも遊びでも、バイトでも何でもいいと思います。その代わり、とことん突き詰めて、やりきって下さい。「自分がこれについて語れば、右に出る者はいない!」と言えるくらいのスペシャリストになってください。そんな経験ができるのは、あとにも先にもこの大学生活が最後ですし、その過程での努力や苦しみ、喜びは、自分の血となり肉となり、何にも勝る「肩書き」になるはずです。

これから経済学部を目指す高校生にメッセージをお願いします!

ここに書くべきことか迷いましたが、私の第一志望は、実は当初、関学経済学部ではありませんでした。浪人生活さえ真剣に考えていました。それでも卒業して、こうして関学経済学部で良かったと心から思えるのは、自分の努力とやる気次第で貴重な環境や機会を与えて頂ける環境があったからだと思います。今でも印象的なのは、関学出身のベンチャー企業の社長が思い思いに自分の人生訓を語っていく授業や、法学部の専門授業やゼミを掛け持ちできる制度を利用し、一つの研究課題を経済と法学という両極端の学問から掘り下げて研究することができたことです。  また、「仲間に恵まれた」ということも非常に大きいです。「起業する人」「スポーツだけで生きてきた人」「熱血ダンサー」「超論理的な人」「バイリンガル」「バイトに生きる人」「旅人」など、私の周りを思い返すだけでも色んな学生が関学経済にはいます。目指すところは違いますが、みなそれぞれ、考え、悩み、努力している、尊敬すべき仲間です。こんな幅広い価値観の中で学んだり、議論したり、協力して一つのものを作り上げる機会があったのは関学経済学部だからこそだったのではないかと思います。