聖書に聞く

[ 編集者:広報室       2017年7月3日 更新  ]

関学ジャーナル256号

国際学部宗教主事 平林 孝裕

いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。コロサイの信徒への手紙 4章6節


 いまもテレビでは、ジャーナリストの池上彰さんがひっぱりだこです。テレビと教壇との違いはありますが、多くの人びとにむけて情報を伝えるという点では、提示資料だけでなく、印象的でわかりやすい例え話など、私にも大変に参考になっています。

 池上さんの番組を観て、何よりも感じることは、一つ一つの話題について入念に準備をされているということです。言葉で何かを伝えることは本当に難しいことだと思います。ただ「しゃべる」ことと、何かを他者に伝えるために「話す」「語る」こととの間には大きな違いがあります。何かを伝えるためには、どのような表現を用いるか、どのように表現するか、どのような資料を用意するか、工夫と準備が必要です。言葉を「塩で味付け」することが大切です。

 素材の味わいが一番大切ですが、その味わいを塩はさらに引き立たせます。しかし、多すぎても少なすぎてもいけません。良い塩加減には修練、そして熟練が必要です。聖書は福音を伝えるために、何にもまして、神の力をえて語りなさいと教えているのだと思います。けれども広く私たちが何かを伝えることを考える際にも、この一節は貴重な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

関学ジャーナル255号

経済学部宗教主事  舟木 讓

その後、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。マルコによる福音書 16章14節


 今年のイースター(復活祭)は、4月16日ということもあってか、3月ごろから日本のさまざまな所で「イースター・パーティー」が盛んと喧伝され、イースター・エッグやイースター・バニーといった象徴もさまざまな所で目にするようになった。しかし、本祝祭のキリスト教的な意味は取り上げられることは少なく、「春を迎えて希望を感じる」といった理解にとどまっているのが現実である。これは、「イエスの十字架上の死からの復活」という出来事が私たちの「常識」をはるかに超えており、容易に「理解する」ことのできないものであることを図らずも証していると言えよう。

 ただ、今回の聖句で示された出来事を見る限り、生前のイエスと直接向き合い、言葉を交わした弟子たちも現代の私たちと同様で、イエスから「不信仰とかたくなな心」を批判されている。ここに、私たちが、日頃慣れ親しんだ考え方や、経験に基づく物事の受け止め方に囚われ、本来の真理や本質を受け止めるための柔軟な心を失い、この世界を硬直的で、生き難いものとしてしまっている根源的な原因が隠されているのではないだろうか。

 自らを尺度として絶対化し、そこに安住して良し、としようとする誘惑に対する峻厳な迫りと問いが、「死」という絶対的な「終わり」ですらそうではないとする、イースターの出来事が有する一つの意味ではないだろうか。

関学ジャーナル254号

文学部宗教主事 A.Rusterholz

主は再び我らを憐れみ…すべての罪を海の深みに投げ込まれる。ミカ7章19節 
 クリスマスの飾りが門松に場所を譲ったのはだいぶ前のことであり、門松もすでに姿を消しました。クリスマスが終わり、しばらく経ってから、あらためてイエスの降誕について考えるのは意味がないと思う方もいらっしゃるかも知れません。しかし、クリスマスは、他にたくさんいるような、有名人の誕生祝いではありません。それは、神が人間と同一になられ、人間の姿で現れたことを祝う日であり、そのたった一日の喜びを、はるかに超える意義を持つ日です。
 クリスマスとは、ただの喜び、一瞬にして消える感情ではなく、十字架を経てイースターの復活で終わる一連の出来事の始まりです。解放をもたらし、預言者ミカの言葉を借りれば、「人間のすべての罪が海の深みに投げ込まれる」ことになります。元通りになることはありませんが、再び同じ罪で責められることもありません。なぜなら、神は「慈しみを喜ばれ」(ミカ7章18節)、たとえ自分は人に見捨てられたと考えていても、誰もが無条件に神に愛されているからです。このことを思い出し、心安らかに新しい一年の歩みを始めることができるのは、実に素晴らしいことです。

関学ジャーナル253号

神学部准教授・宗教センター宗教主事 Jeffrey Mensendiek 

…初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水のおもてを動いていた。創世記1章1-2節 

混沌とした風景を目の当たりにしたことはありますか?私は東日本大震災直後、津波の被害にあった地域でボランティアに携わりました。泥をかぶった車や家庭用品、誰の物かも分からない物が一面にころがっていました。それは混沌というほかない光景でした。
 聖書はカオスから始まります。天地が創造される前はむなしくて、闇と隣り合わせの風景です。そこから神の物語は始まります。天地創造物語において神はまず天地に秩序を与えます。光と闇、天と地、陸と水を分け、そしてそこに住む生き物たちを造られます。ご自分が創造された全てのものを見て神は喜ばれました。それはきわめて良かったからです。思えば聖書は、混沌
とした状況におかれた人たちの物語の連続です。旧約聖書には砂漠で試練に遭うイスラエルの民、新約聖書には十字架につけられたイエスがいます。その混沌とした経験にこそ意味があるのです。神はその人の傍らにいて、そこから新たな希望の道が開かれるからです。
 関西学院の歴史を振り返るときも、その混沌経験を忘れてはなりません。なぜなら、そこにこそ神の哀れみと力が現れたからです。現代において私たちが被災地に足を運んで混沌とした風景の前に立つにしても、また自らの混沌経験に向き合うにしても、決して希望を失ってはいけません。混沌から神の物語は始まるからです。

関学ジャーナル252号

法学部宗教主事  大宮 有博

…なぜならわたしは弱いときにこそ強いからである コリントの信徒への手紙二 12章10節

 マルコ福音書のイエスの受難場面を読むと、イエスの弱さが目を引きます。イエスは前の晩「この杯を取りのけてください」ともだえるように祈ります。また十字架上でも「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びます。福音書の描くイエスの死は決して英雄的なものではありません。
 パウロは手紙の中で、このイエスの弱さを強調します。十字架でイエスが苦しむ時、神はともに痛み、苦しみます。しかし、イエスとともに痛まれた神は、イエスをよみがえらせました。ですからパウロの言葉「弱いときに強い」とは、私たちが自分では立ち上がれないほど痛み苦しんでいる時にこそ、神は私たちのすぐそばにいて、ともに痛まれるということを意味しています。そして、その神に自分を委ねた時、神はその力を発揮して、私たちが再び立ち上がれるようにしてくださるのです。
 人が「弱いとき」とは、尊厳やプライドが誰かに踏みにじられ、最低限の生きる権利を奪われている状態です。キリスト教主義大学の使命とは、そのような弱さの中に置かれた人々から学び、その人たちの解放に資する学問を構築することではないでしょうか。

関学ジャーナル251号

商学部宗教主事  山本 俊正

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 使徒言行録2章41節

 全ての人に誕生日があるように、教会にも誕生日があります。キリスト教の暦では、毎年、復活の聖日(イースター)から50日目が誕生日にあたります。今年は5月15日の聖霊降臨日(ペンテコステ)が教会の誕生日です。今から2千年以上前のこの日に、神の霊がキリストの弟子ペテロやエルサレムに集まった多くの人々の上に働いて、その日、3千人の人が信者となり、エルサレムにキリストの教会ができました。
 世界のキリスト教人口の推移を統計で調べますと、今から約100年前のキリスト教人口は約5億人でした。そのうちの約85%が欧米に集中していました。現在、世界のキリスト教人口は約22億人です。そのうち約55%が非欧米の国々、アジア、アフリカ、ラテンアメリカに集中しています。お隣の韓国では人口約5千万人のうち約4分の1がクリスチャンです。北朝鮮にも現在、約1万2千人のクリスチャンがいます。ピョンヤンには二つのプロテスタント教会があり、500以上の家の教会があります。朝鮮戦争前、ピョンヤンはアジアのエルサレムと言われていました。中国は政府公認、非公認の教会を含めると、人口の約10%、1億人を超えると言われています。このように、キリスト教は現在、欧米の宗教ではなくなっているのです。

関学ジャーナル世界市民特別号2016

院長 田淵 結

わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 ローマの信徒への手紙 12章5節

 創立125周年を記念して建て替えられた新たな西宮上ケ原キャンパスの中央講堂に、オーストリア・リーガ社製のパイプオルガンが備えられました。関西学院には西宮上ケ原キャンパス、神戸三田キャンパスの両ランバス記念礼拝堂や西宮聖和キャンパスの山川記念館、関西学院初等部のベーツチャペルなどに、パイプオルガンが置かれています。その楽器の音色を耳にするたびに、「ああ、だからこの楽器を『オルガン』と呼ぶのか」と私は勝手に考えています。ピッチ(音の高低)や音色などがさまざまに異なるたくさんのパイプに風が送り込まれることによって美しい音楽が生まれます。なんだか人間の身体(器官・オルガン)のように思えませんか。そして新鮮な息が吹き込まれると、体全体が生き生きと活動するのです。
 関西学院は、7つのキャンパスに幼稚園から大学院までを擁し、さらに保護者や同窓の方々に支えられた、「数の多い」しかし「一つの体」です。各学校での学びや活動は、それぞれに異なりますが、どの働きも関西学院の大切で重要な、かけがえのない部分です。その全体に神様の息吹(聖書的な言い方をすると「聖霊」)が吹き込まれてはじめて、その最高の可能性が発揮されます。
 そのように、みなさんは関西学院のどの学校、組織に属しておられても関西学院にとって大事なおひとりです。そして、それぞれがともに大切な、私たちのKWANSEI Communityを支える大切な部分(パーツ)を支えるパートナーなのです。We are KWANSEI!

関学ジャーナル250号

社会学部宗教主事  打樋 啓史

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 マタイによる福音書6章34節


 大学の広報誌に載せる聖句として、イエスのこの有名な言葉は「そぐわない」だろうか。本学に勤めて17年目になるが、日本社会が若者たちに「明日のことを思い悩ませる」傾向をどんどん強める中で、大学もそれと連動して、学生たちに「不安定な将来のために、今、最大限の努力をするように」という教育を推し進めてきたことは否めない事実なので、ふとそんな疑問を抱いた。
 もちろん、将来のために今努力するのは大切だし、大学がそれを推奨するのも当然だろう。しかし、これが過剰になった社会を、哲学者の鷲田清一が「前傾姿勢の社会」と呼んだように、「明日のための今日」としてしか今を生きられなくなると、人間は慢性的な不安と不満の中でしか日々を過ごせなくなってしまう。実際に生きて体験できる時間はすべて「今/今日」であるのに、それを「明日を思い悩む」だけの時としてしまい、十分に味わい、楽しむことができなくなってしまうからだ。
 イエスの福音の中心であるこの言葉は、今を今として生き抜く自由へと私たちを招く。「今が楽しければそれでいい」という刹那主義ではない。それは、今というこの瞬間を、不安と恐れの時ではなく、感謝と喜びの時にしていくことへの招き。そして、明日への信頼と期待の内に、今をそこにつないでいくことへの招きである。新しい年、関西学院大学に連なる私たちが、イエスによって示されたこの信頼の道を歩み出したい。

関学ジャーナル249号

人間福祉学部宗教主事 嶺重 淑

また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 マルコによる福音書2章22節


 新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、ぶどう酒は発酵して革袋を破って流れ出てしまい、結果的にぶどう酒も革袋も無駄になってしまう。古いものと新しいものの不適合性について語るこの比喩を通して、主イエスは、自らの新しい教えが旧来のユダヤ世界の慣習・常識とは相いれないことを示そうとしたようです。これを現代的に解釈すれば、新しい時代には新しい考えがふさわしく、いつまでも古い考え方に固執すべきではないということになるかもしれません。
 実際、私たちは今、あらゆることがめまぐるしく変化する時代に生きています。ついこの間まで「常識」であったものが、今では廃れて時代遅れになり、どんどん新しいものに取って代わられています。しかし、古いものの中にも守るべき大切なものがたくさんあるのではないでしょうか。事実、主イエスのこの言葉も、新しい生き方を選び取るためには、古い生き方に別れを告げて新しく生まれ変わる必要があると説いているのであって、古いものを全面的に否定しているわけではありません。その意味でも、今の私たちに求められているのは、変えるべきものと維持すべきものとを見極める目を持つことなのかもしれません。

関学ジャーナル248号

総合政策学部宗教主事 村瀬 義史

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」 フィリピの信徒への手紙3章13,14節


 「目標」というと、今日や今週の目標もあれば、数年や数十年というスパンの目標まで、さまざまなものが考えられるでしょう。それでも、私たちが目標という時、おおよそ目先の、短期的な視点に立つ目標の場合が多いのではないでしょうか。長くてもせいぜい数十年。ですから、たとえばスペインの建築家ガウディが、完成まで数百年かかる(1882年着工、現在も建築中の)サグラダ・ファミリアの設計・建築に後半生をささげた話は、私たちにとって非常に魅力的です。
 学生生活は、さまざまな「目標」の設定と、達成の積み重ねです。多くの人が、課題に追われる日々を過ごしておられることでしょう。しかし、時々、立ち止まって考えてみてください。「なぜ私はこれをしているのか。この目標の達成は、さらに先にある、どのような目標に向かっている達成なのか」と。
 創立者W・R・ランバス先生の言葉が想起されます。「どれほど長く生きたかではなく、何を生きる目的としていたかが重要である。その人が何を為したかではなく、何を為そうとしていたかが問われるのだ」。
 人生は一回きりです。生涯をかけてそれに向かって活動し続けるに値する大きな「目標」を、関学生活の中で探求してゆこうではありませんか。

関学ジャーナル247号

国際学部宗教主事 平林 孝裕

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 ヨハネによる福音書3章19-20節


 北欧の復活祭前後の日ざしはひときわ眩しい。正直にいえば疲れを感じるほどである。長く暗い冬、あれほど待ち遠しかった陽の光に不条理な思いをいだいた。留学時代の記憶である。人はどうも明るすぎることを好まない存在であるらしい。
 何もかもが白日の下に晒されたとしてみよう。浮かんでは消える思い、怒りや悲しみ、よこしまな気持ち…。とても耐えられるとは思えない。翻って私の思い、行いが人目から隠されている時、人は信じられないほどに大胆なことを思い、行うことがある。普段ならありえない不道徳なことに手を染めることさえ。どうせ誰にも知られることはない…皆そう思う。誰も知らない…、でも貴方が知っている(…そして神も)。
 それを知る貴方が自分を裁く…、この重荷を誰にも語ることはできない。良心の呵責、負い目が心に闇をつくり、貴方を闇へと追いこんでゆく。では、どうしたらよいだろう。いつも自分の心に光をもつこと、自らの思い、行いを明るみに出してもよいよう心がけること。もし過ちをおかした場合でも、みずからを白日の下に見る勇気・謙虚さを失わないこと。聖書はそのような光を神と呼んだ。光を求める者、自らをただすものを、神は必ず良いところへと導いてくださる。“Walk as children of light.”(エフェソ5・8)

世界市民特別号2015

院長 ルース・M・グルーベル

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、… エフェソの信徒への手紙 2章19節

 関西学院大学に入学された皆さんを心より歓迎いたします。
 関西学院は世界市民(World Citizen)の育成を目指しています。この聖書の言葉は、国籍やアイデンティティにかかわらず、一人ひとりが神の家族として互いにつながっているということを私たちに示しています。すべての人が神の家族であるということ、きっとこれが世界市民であることの一番の本質だと思います。皆さんはこれからさまざまな出身地、文化、言語、アイデンティティ、考えの人と出会い、共に学び、励んでいきます。お互いに協力していく上で必要な共通の人間性を覚え、人類の社会に存在する魅力的な多様性を楽しんでください。
 皆さんが関西学院大学での学びを通して、世界中の「家族」を深く理解できる人になられることを願っています。

関学ジャーナル246号

経済学部宗教主事 舟木 讓
「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った。『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた。『行ってあなたも同じようにしなさい』」「ルカによる福音書」第10章36-37節



 2015年1月17日午前5時46分に、私たちは阪神・淡路大震災発生から20年を迎えます。今、あらためてこの出来事に思いを致すとき、その日を境にこれまで当たり前のように過ごしていた「時」が突然瓦が解かいし、一人ひとりが乱れた「時」を少しでも整った「時」に回復しようと努める日々がその時から始まったように思われます。一方、大きな災害や事故に限らず、私たちは、自らの病や失恋、受験・就職でのつまずき、親しい人の老い・病・死などの悲しみによる「時」の乱れといった予期せぬ重荷を背負うことも避けられない事実であり、逆に結婚や入学・就職、子どもの誕生等の喜びによる「時」の変化に心躍ることもあります。
 この端的な事実に向き合うと、普段無意識に身を委ねている「時」が、実は均一ではなく、極めて濃淡と波乱に満ちたものであり、また今自らの傍らにある人の中にも、今まさにそうした「時」の乱れによって押しつぶされそうになっている人が存在している事実に気づかされます。
 個人としても社会としても「時」の乱れに傷ついた人々にどのように寄り添い、その乱れを受け止め、回復への希望を与えることができるのか、今この「時」あらためて一人ひとりが自らの問題として問われているのではないでしょうか。

関学ジャーナル創立125周年記念号

院長 ルース・M・グルーベル

というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから・・・ ローマの信徒への手紙第12章4-6b節


 創立125周年記念号にちなみ、新約聖書「ローマの信徒への手紙」から聖句を選びました。
 今日まで継続した関西学院の発展に尽力されてきた方々、また、現在この「ラーニング・コミュニティ」を支えてくださっている全ての方々の「多様性」にあらためて感謝しているからです。年齢、性別、国籍、社会的立場などにかかわらず、このコミュニティの全ての人が等しく大切な存在です。ものの見方や才能がそれぞれ異なることが、学生・生徒や教職員、同窓生を活気づけ、さらに関西学院というコミュニティをより創造的で力強い存在にしてきました。一人ひとりが持つ可能性を最大限に発揮することは、社会をより良い方向に変革できる世界市民の育成につながり、関西学院がコミュニティとして“Mastery for Service”を実践していることとなります。
 この特別な創立記念日をお祝いするにあたり、神様が与えられた賜物(才能、gifts)をそれぞれが精いっぱい生かし、他の人々に仕える決意を新たにしたいと思います。

関学ジャーナル245号

文学部宗教主事 A・ルスターホルツ

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」ルカによる福音書19章10節


 エリコという町を通っておられたイエスの姿を、どうしても見ようとした男がいました。単に野次馬根性からです。彼は背が低かったので、人混みの中では前にいる人の背中しか見えず、仕方なく近くの木に登りました。
 しかし、思いがけない展開が待っていました。木の上の男を見かけたイエスは彼を呼び、その家に泊まろうと言ったのです。これは、上述の聖句にある「救い」そのものではありません。「救い」と呼ばれる出来事は、これによってこの守銭奴だった男の考え方が180度変わり、今までのように自分だけの利益を追求せず、施しをすることを決心したことです。イエスのたった一言の呼びかけのおかげで、男の考え方が新しく生まれ変わったこと、それが「救い」でした。
 私たちの周りにも、友達のいない人、いつも一人で食事をしている人、落ち込んでいる人がいます。そんな人にちょっと声をかけることが、その人にとって救いが訪れる瞬間になるかもしれません。自分が他者から認められていることを知り、自信につながるかもしれません。たった一言の呼びかけには、人間を変える力があるのです。

関学ジャーナル244号

商学部宗教主事 山本 俊正

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネによる福音書2章11節

 
 4月に意気揚々と入学した新入生も、「五月病」を患い、大学生活の目的を見失う季節です。ヨーロッパの多くの教会には昔から、子どもの信仰を教育するために、信仰問答書(カテキズム)と呼ばれるものがあります。この信仰問答書によって、子どもは「イエス・キリストとは」何か、「神とは」何か、ということを学びます。有名なカテキズムの一つに、「ハイデルベルグ信仰問答書」があります。この問答書の1番目の問いは、「あなたの人生の目的は何ですか」です。答えは、「神の栄光を現すことです」と書かれています。私たちは、人生の目的をもっと、目に見える物質的なもの、地位や名誉といった社会的な成功などに置きがちですが、信仰問答書の答えはとてもシンプルです。「神の栄光を現すことです」と書かれています。そしてこの「栄光」という言葉は、ヘブライ語で「カボート」といい、「重さ」という意味があります。つまり、私たちが生きていく上で、神は目に見えないけれど、その存在が日々の生活の中で「ズシッとした重み」を持って感じられるような、歩みをすることだと述べています。
 「神様の重み」を現すことが、人生の大きな目的なのです。

関学ジャーナル243号

法学部宗教主事 栗林 輝夫

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」マタイによる福音書6・1


 ほんの少し前まで「一億総中流」と言われていた日本も、今や先進国の中でアメリカに次いで貧富の激しい格差社会になりました。新しい年を迎えたというのに、住居や食事に事欠いて野宿する人が大阪や神戸の街に少なからずいます。聖書は「生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15章11)と、そうした困窮者への配慮をつづっています。
 どんな国、どんな時代でも善行は麗しいことです。しかし、善い行いは、天の父に褒められ
るよう隠れたところで行いなさい、とイエスは教えられました。善行は真心から湧き起こるものでなければならないはずです。ところがパリサイ派の人々は、施しをする時、ラッパを吹き鳴らし、大勢を呼び集めてから始めました。そんな彼らをイエスは偽善者と呼んでいますが、「偽善者」というヒブル語はもともと「俳優」という意味。彼らはまさしく人前で善行を演じて拍手喝采を受けました。
 しかし、右の手がする善い行いを、一番近くの左の手にも知らせずにするなら、神はきっとあなたに報いてくださいます。「人はうわべを見るが、主は心によって見られる」(サムエル16・7)からです。

関学ジャーナル242号

社会学部宗教主事 打樋 啓史

「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」エゼキエル書36:26


 紀元前6世紀、バビロン捕囚によって、ユダヤの人々は大きな苦しみを体験した。祖国を追われ嘆き悲しむ人々に、預言者エゼキエルが神からのメッセージとして伝えたのがこの言葉。「石の心」とは、絶望によって閉ざされ、石のように固く冷たくなった心、あきらめと無感動の心である。これに対して「肉の心」とは、温かい血の通った心、傷つきやすいけれど感動できる心、未来を信じて待ち望もうとする心のことだろう。「神が与える『肉の心』があれば、この過酷な状況に押しつぶされてしまわず、何とか立ち上がって歩き出していけるはずだ」。エゼキエルは、絶望していた同胞たちをそのように励ました。
 誰の人生にも大なり小なり辛いことがある。そんなとき、状況そのものは簡単に変わらない。しかし、聖書は一貫して伝えている。たとえ状況がすぐに良くならなくても、心が変われば確かに何かが変わるということを。思い通りにならない辛い日々のなかでも、小さなことに喜びを見出し、人とのつながりに感謝し、明日を期待して待ち望む心を保てるなら、きっと世界は違って見えてくる。「石の心」が何も生み出さないのに対して、「肉の心」は意外な形で新しい出会いと発見を与えてくれる。行き詰まるようなとき、ぜひそのことを思い出したい。きっと、ささやかな何かが、身近な誰かが、そして聖書の言葉が、「肉の心」を取り戻す手助けをしてくれるはずだから。

関学ジャーナル241号

理工学部宗教主事 前川 裕

イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ福音書4:13 -14


 イエスは、井戸へ水を汲みに来たサマリア人の女性に対し、この井戸の水を飲んでもまた渇きがやってくるが、イエスの与える水を飲めば再び渇くことがない、と語りました。世の中で重んじられている価値、例えば金銭や地位や名誉は、得たものが多くなればなるほど、さらに多くを求めたくなる性質を持っています。それらを求める欲求には限りがありません。そのような心は、常に渇いているといえるでしょう。
 イエスの与える水、すなわち聖書の言葉は、私たちの心に染み入り、その深いところにとどまります。そして思いがけないときに心の中に浮かんできます。喜びのとき、苦しいとき、私たちを支えている聖書の言葉に気づかされます。初めて聞いたときには意味が分からなかった言葉、むしろその内容に反発していた言葉が、自分たちに語りかけてくるのを感じるようになります。それは私たちの内につくられた泉から湧き出てくるものです。
 特に若いときに知った言葉は、その後の人生における泉、命を支える糧となります。チャペルをはじめとしたあらゆる場面を通じて聖書の言葉を生徒・学生に伝えようとする関西学院は、一人ひとりを生涯にわたって支える大切な働きを担っています。

関学ジャーナル 240号

大学宗教主事・経済学部宗教主事 舟木 讓

「信者たちは一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」使徒言行録2:43―45


 私の「幸せ」を追求するとき、限りある資源を少しでも多く我がものにしたいと思い、できれば自らの「身内」の「幸せ」がのちのちの世代にまで続いてもらいたいと願うのは人間にとって当たり前の願望と言えます。ただ、その果てに待っているのは、私たちは他人との終わりなき「比較」によってしか、自らの「幸せ」を感じることができないという絶望的な現実であります。
 自らの裸の「いのち」に目を向けることなく、他者と比較していかに多くのものを身にまとっているかで「幸せ」をはかろうとする思い。あるいは、多くのものを身にまとえばまとうほどに自らの歩みは重いものとなり、生き難さが増し、不自由になるはずなのに、そのことに気づくことなく、あの人この人よりも多くをまとっていることに「優越」を感じようとする愚かさ。本来まっとうな宗教はそうした思いが「的外れ」であることに目覚めさせ、一人ひとりに取り換えのきかない固有の「いのち」が与えられているという当たり前の現実と、そこに存在する本当の「豊かさ」に気づかせるものであると言えましょう。
 この私にとって本来必要なものが何なのかを立ち止まって考える余裕を持つように呼びかける声に対して、常に謙虚でまた敏感であること、これこそが人間が持つべき最低限にして十分なたしなみであり、真の「幸せ」を得るヒントと言えるのではないでしょうか。

関学ジャーナル 239号

人間福祉学部宗教主事・嶺重 淑

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」マタイ福音書5章13節


 「あなたがたは地の塩である。」―このイエスの言葉は人間福祉学部の聖句としても定められていますが、この一文には実に深い意味がこめられています。
 「地の塩」の「地」はこの世界を意味し、「塩」とは言うまでもなく、食べ物に味をつけ、保存し、さらに汚れを清める等、さまざまな機能をもつあの塩のことです。その意味でも、この「地の塩」という表現は、この世界にあって重要な役割を果たす貴重な存在を指し示しており、「あなたがたは地の塩である」という言葉は、まさにあなたがたこそが、そのような貴重な存在なのだと断言しているのです。
 しかし、ここで注目したいのは「地の塩」の地味なイメージです。その意味では、その働きは地味で目立たなくても、まさに空気のような不可欠な存在を、この言葉は言い表しています。事実、私たちの周囲には、その働きは評価されなくても、貴重な働きをされている方が数多くおられます。そしてそのように、必ずしも人から評価されなくても、それぞれの置かれた場で他者に仕え、社会に貢献できる人を育成することこそが、“Mastery for Service”をスクールモットーとする私たちの学院の使命であるように思います。

関学ジャーナル 238号

総合政策学部宗教主事・村瀬 義史

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。(中略)試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」Ⅰコリント10:13

 美しい音楽で世界を魅了した映画「サウンド・オブ・ミュージック」の序盤、修道院生活になじめない主人公のマリアが、ある退役将校の子どもたちの家庭教師になるよう勧められて修道院を出ていきます。その時マリアが、緊張と不安を抱えながらも力強くつぶやきます。「神様が扉をお閉めになる時には、どこかの窓を必ず開けておいてくださる」と。
 
 日本語字幕は別の表現になっていますが、おそらくこれがこの作品を貫くキーフレーズです。あらゆる可能性が閉ざされたかに見えても、どこかに開かれる突破口がある、というメッセージです。聖書の言葉に重なります。試練は時々、私たちの視野を狭め、弱さと混乱と闇の中に私たちを閉じ込めます。しかし、現段階の自分の視界よりも、もっと大きな視界の中で試練の突破が用意されているのだ、と聖書は語ります。そのことを信じて、広く世界を見て、心安らかに今の自分の最善を尽くそうじゃないか、と。
 
 ちなみに上の言葉は、現・阪神タイガースの城島選手を支えてきた言葉として、あるスポーツ紙で紹介されたことがあります。聖書は、時代や国境を超えて世界のさまざまな人に影響を与えている、言わば世界的書物です。

 今学期も、ぜひチャペル等で聖書の言葉と出会ってください。

関学ジャーナル 237号

国際学部宗教主事、大学宗教主事・平林 孝裕

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記11章9節

 関学に国際学部が誕生して3年目をむかえています。その経験から意義深く味わう聖句が一つ増えました。バベルの塔の物語です。
 かつて人間は一つの言葉を語り、レンガと瀝青で天まで届く塔を建設しようと計画しました。神はそれを見て、人間の言葉を混乱させ、その計画は頓挫したと聖書は伝えます。天は神の住居であり、「天まで」との願いは「神のように」なりたいとの傲慢の表現と解釈されます。人間の傲慢に対して神が与えた代償が言葉の混乱であり、結果、今日の言語や文化の多様性がもたらされました。この出来事がなければ、国際学部も誕生しなかったかもしれません。宗教主事がこのような奇妙な理屈を話すと、国際学部の学生たちは不思議そうな顔をします。
 さて、ある方の示唆によるのですが、バベルの塔の建築が継続されていたら、どうなったか考えたことはありますか。神が言葉を混乱させなくとも、塔は完成することはなかったでしょう。レンガと瀝青では塔の重みに耐えきれず、ついに崩壊したにちがいないからです。そして塔の崩壊は周辺に甚大な被害をもたらしたにちがいありません。神の介入は破局的事故を未然に防いだのです。言葉の多様は、さらに意見の多様とも理解できます。意見の多様こそが人間の業の傲慢から私たちを守ってくれるのではないでしょうか。
 今、私たちが直面する大きな課題に、多様な観点からの議論が必要だと聖書は戒めているように思えてなりません。

関学ジャーナル 236号

教育学部宗教主事、関西学院宗教総主事・田淵 結

「あの方は復活なさって、ここにはおられない」マルコによる福音書16章6節

 2012年度の最初の日、4月1日は日曜日でした。今年その日曜日はイエス(キリスト)が十字架上で処刑されたことを記念する一週間(受難週)の最初の日にあたりました。そしてその次の日曜日8日はイエスが死からよみがえったイースターとなりました。そんなことは日本ではほとんど話題になりませんが、北半球のキリスト教文化圏の国々では、イエスの復活から春が始まるということで盛大に祝われます。
 一週間のうち日曜日がお休みなのは、イエスが復活したのが日曜日だからです。おなじみのクロス(十字架)のアクセサリーですが、それを身につけるのは十字架上のイエスの死を記念するという大きな意味があります。あるいは春の訪れ、日曜日、クロスのアクセサリー、私たちも何気なく親しんでいることですが、それを世界的に考えてみると、そこにとても深い文化的背景や理由があるのです。
 本物の国際性に触れる、世界市民となるということは、私たちの日常生活の中にあるいくつものことが、世界的な意味を持っていることに気づくことから始まりますし、キリスト教主義に基づく教育を展開する関西学院だからこそ、本物の世界市民となるための学びが可能なのです。

関学ジャーナル 235号

経済学部宗教主事・舟木 讓

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」「ルカによる福音書」18章13節-14節

「どう考えても相手が間違っている。こちらの方が理に適っているし、絶対正しい」。社会生活を営む上で、誰しもが多かれ少なかれ経験する思いだと言えます。また、社会や組織を運営していく際、「理に適った」ことを進めなければ、秩序の崩壊につながると言えます。
 しかし、この側面だけで人生や社会を考えたとき、そこには、「正しい人」と「誤った人」しかいないという、まことに乱暴な尺度のみが存在することとなってしまいます。
 果たして我々はそんな尺度でしか計れないほどに単純な存在なのでしょうか。この尺度には、我々に与えられた「いのち」の深淵さと豊かさを無視した浅薄で粗雑な人生観しか浮かんできません。
 我々は多かれ少なかれ何らかの「破れ」を背負って生きており、その「破れ」をごまかしたり、誰かに繕われたりして、かろうじて生かされている存在であるという端的な事実に向き合っていない不誠実さがここには透けて見えます。今回の聖句は、人の「過ち」を問う前に、「破れ」繕われてある我が身に気づく最低限の「たしなみ」を身に付けるよう警告しているように感じられます。
 この「たしなみ」を忘れ人の非を責め立てるのみの状態、それをイエスは「罪」と呼ばれたのではないでしょうか。

関学ジャーナル 234号

法学部宗教主事・栗林 輝夫

「雲の彼方の確かな証しである月のように、とこしえに立つ。」詩編89章38節

 秋になると月を眺める機会が増える。天空に美しく凛と輝く月を見て、来し方行く末を思う時も少なくない。日本人は自然の中に生き、花鳥風月を愛でてきた。「名月や池をめぐりて夜もすがら」(芭蕉)、「名月をとってくれろと泣く子かな」(一茶)と、俳句にも月を詠んだ句が多い。 団塊世代の筆者にとって、子供の頃、テレビでは「月光仮面」が大のヒーローだった。全身白タイツ姿で、ターバンには三日月マーク、白覆面の上にはいつも黒いサングラスが光っていた。夜には敵がよく見えないのでは、と子供心に按じたが、心配無用、颯爽と現れては、悪人どもを蹴散らして困っている人々を救い出した。カッコ良さに心底しびれたものだ。
 翻って関学の校章も三日月である。今は不完全でも、神の恵みの光を受けて、やがて満月のように完全になる、という関学の人格教育の理念を表わす。聖書には「殺すな、汝の敵を愛せ」との戒めがあるが、「憎むな、殺すな、赦しましょう」と月光仮面も言っていた。そんな記憶を手繰りながら、冴えわたる秋の月を見ていると、関学のシンボルマークに深く合点がいくのである。

関学ジャーナル 233号

商学部宗教主事・山本 俊正

「神はわたしたちの避けどころ…わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」詩編46

 3月11日、私は特別研究期間中のフィールドスタディで香港にいました。ホテルのテレビは巨大な水の塊が、太平洋岸に押し寄せる様子をリアルタイムで伝えていました。まるでオモチャのように、ひきずられてゆく車。流れ出す建物。みるみる水没してゆく漁港、住宅街。テレビの前で言葉を失い、おろおろしてしまう自分でした。神学者である小山晃佑は「一人の苦しむ人の前
でおろおろする神学こそ真の神学である」と述べています。私たちが突然予期せぬ苦難に直面し、おろおろする時、イエスもおろおろし、神も共におろおろしているのです。おろおろするとは、簡単にあきらめたり、見捨てたりしないことです。おろおろして迷い、つまずき、祈ることです。変わり果てた小さな姿をがれきの間で見つけ、泣き叫ぶ母親と共に、神もおろおろしているのです。今も、身を寄せるところのない人々が避難所等で不安な夜を過ごしています。被災した人々の苦しみから、自分を切り離してしまうのではなく、おろおろしながらでも祈り続けたいと思います。

関学ジャーナル 232号

教育学部宗教主事、関西学院宗教総主事・田淵結

「子たちよ…行いをもって、誠実に愛しあおう。」(ヨハネの手紙一 2章18節)

関西学院に新しく入学されたみなさんには、いろんな意味でカルチャーショックを受けられることが多いと思います。そのなかのひとつに、キリスト教プログラムがあるはずです。聖書の言葉を読み、祈りをささげる、生まれて初めて関学でそんな経験をすること、そのときみなさんはどんなことを感じ、思われるのでしょうか。“Mastery for Service”をスクールモットーとする関学で語られる聖書や祈りの言葉は、それらが毎日の学生生活のなかで、あるいは一人の市民としての具体的な生き方とつながっていくはずです。つまり「愛する」ということが、ただ「心の持ちよう」とか「感情や気分的なもの」ではなく「だからあなたは何をするのか」という問いへとつながっているのです。大きな災害が起こりました。そのなかで悲しみ、苦しみ、痛みを負う人びとの生命、生活への思い(愛)を私たちが持ち、そのために祈るからこそ、具体的な救援の形が生まれてくるのです。愛の誠実さ、それは毎日の私たちの行動を通じて示されてゆきます。

関学ジャーナル 231号

国際学部宗教主事・平林孝裕

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書八章三一〜三二節)

マラウイという国をご存じだろうか。東アフリカの小国、世界の最貧国の一つである。子どもたちは十分な教育を受けることもできない。この国で一人の少年が夢をかなえた。NPOの図書室から借りた物理学の本を独学で学び、廃品から風力発電機を自作、家に明かりを灯した。ウィリアム君はこの快挙を契機に、念願の中学で学ぶチャンスをつかみ、いま米国の大学で学び始めた(『風をつかまえた少年』文藝春秋刊)。この少年の物語を知った時、脳裏に聖書のこの言葉が
浮かんだ。
物理学、自然的真理(の知識)が人間を貧困などから解放(自由に)すると考えたからではない。普段、私たちは己の真実に目を向けず、思い込みに囚われてはいないか。「どうせ…」と絶望してはいないか。心の覆いを取りさる時、真実の自分を見つめる時、私たちの許に恵まれた可能性を見いだすことができる。貧困の中にもわずかな希望を見いだし、少年は窮境から自由となった。自分の現実に向かい合おう、そこにあなたの希望がある。